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山田耕筰のオペラ「黒船――夜明け」を聴いて/角南敬(2008年2月24日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年02月24日より)

 2月23日、新国立劇場にて山田耕筰のオペラ「黒船――夜明け」を聴く。指揮は若杉弘、演出は栗山昌良、管弦楽は東京交響楽団である。

 解説によると、このオペラは日本におけるグランドオペラの第1号とされ、1940年11月に初演が行われたとのことである。私はこのオペラを聴くのは初めてである。したがって、演奏や演出の優劣について論じることはできない。ただ、オーケストラがきちんと鳴っていたこと(私の席は4階のバルコニーであった)、演出もオーソドックスと思われるもの(但し、舞台装置っぽさが散見されたが)であったことは申し上げておきたい。

 私事で恐縮だが、私の亡き祖父は山田耕筰が好きで、まだ幼い私に瀧廉太郎の「花」を例に挙げ、「春のうらゝの隅田川~」で“川”の“が”のところで音が上がるのは、日本語としておかしい、山田耕筰はこんな風には作曲しない、といっていたのを思い出す(但し、「花」が名曲であることはいうまでもない)。

 日本における西洋音楽の発展において、山田耕筰が最も重要な人物の一人であることは論を待たないが、私はとりわけ、日本語のアクセント、イントネーションと西洋的な和声・進行を結びつけ、美しい調べを創り上げた点で、彼の功績は計り知れないものがあると考えている。「からたちの花」「この道」をはじめ、彼の作曲した歌曲の、いずれも無理のない抑揚と音楽的な豊かさは、“日本のメロディー”の一つの源流といえるのではないか。

 このほど聴いたオペラも、その点では山田耕筰の美意識を徹頭徹尾貫こうとしているのが分かった。レチタティーヴォは口語体、アリアは和文脈の文語体が使われ、初めはその日本的な調べと西洋発祥の“オペラを聴きに来た”という思いとのギャップに何となく違和感を覚えていたのが、次第にその世界に共感できるようになっていく。山田はドイツへの留学経験があるそうで、解説にはワーグナーやR.シュトラウスのオペラに触れた旨記されているが、その音楽にはプッチーニの叙情性、フランス印象派の煌きなども感じられ、彼が感化されたであろう西洋音楽のエッセンスがそこかしこにちりばめられた、管弦楽的にも興味深い音楽であった。

 しかし、さほど演出上も問題がなさそうなこのオペラが、現在に至るまで、それほど上演されていない理由として、メロディーがそれほど印象深くない、という点があるように思われる。前述のとおり、日本語としてのアクセント、イントネーションはよくできているように聞こえた。しかし、アリアに永遠の名作を残した作曲家たちに比べると、その天才的な閃きには欠けているような気がする。また、今回は従来カットされることの多い、「序景」が第一幕の前に演奏された、完全版での上演であった。この「序景」は、盆踊りでにぎわう夏祭りの夜を民謡風の合唱と踊りで描いたもので、その後のドラマとのコントラストが狙いと思われる。しかし、やや魅力に乏しく(特に今回の演出では虚無僧の立ち回りの意味がよく分からなかった)、カットされても故からぬ内容との印象を私は受けた。

 このオペラでは、1940年に初演されたという点にも注目したい。アメリカ領事の暗殺を命じられた芸妓お吉を中心にドラマが進むが、最後の幕で、そのお吉の命を救った領事に対し、人々から賞賛と友情が歌われる。さらにお吉に暗殺を命じた浪人吉田は、自らの非を悟り自害するが、これに対し、領事は吉田の流した血で両国は平和に結ばれることを告げるのである。今回の演出では視覚的インパクトは薄かったものの、アメリカ人の目の前で攘夷を唱えた浪人が自害するシーンで終わるのは、相当衝撃的だ。今日流布している歴史観――ヨーロッパでは第二次世界大戦が既に始まり、この年に日独伊三国同盟が成立している――からみれば、翌年に戦争をする国同士が、との思いを抱いてしまいそうだが(こうした自らの視野の狭さを恥じたい)、それゆえ、山田の良心、何よりもこれを許容し、「日本国民歌劇の“夜明け”である」と賞賛した当時の日本人の良心に尊敬の念を抱かざるを得ないのである。それに比べ、“自由”であるはずの今日の日本が、何と自由な発言のできない国になっているのであろうか。

 いくつかの問題点があるとしても、日本のオペラのさきがけであること、日本語を大事にしようとしている点、何よりも題材に見え隠れする思想から鑑みれば、もう少し上演されてもいいと思える作品であった。

<追記>
この日(23日)は、ほぼ満員の入りであった。観客の反応も概ね良好だったようである。3月10日からの「アイーダ」も既に前売り券が完売だという。何かと批判の多い同劇場だが、単純にこうした状況を喜びたい。

<再追記>
このオペラの台本が英語からの翻訳だった、ということがすっかり抜けていたことに気づいた。ということは、私の「日本語を大事にした」という風に聴こえた、という点はいろいろな観点から再考する必要があるだろう。それに、劇のクライマックスが物足りないのは、演出ではなく、そもそもの音楽的な面もある、という意見もあるようだ。やはり初めて聴いたオペラを論ずるのは難しい。

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