バッハ《平均律クラヴィーア曲集第1卷》byダニエル・バレンボイム(3) 小川榮太郎(2008年03月23日)

 それにしても、本當に感動した音樂に就て、言葉でそれを寫さうとは、何と不思議な慾望なのだらう。昨晩は、あれこれ、マーラーのレコードを聽いて過ごし、豫想どほり、かなり退屈を覺えた私は、寢る前に、バレンボイムの《平均律》1卷を、1番から6番まで通して聽いた。勿論、きちんと批評すると書いた前囘の公約を果す爲でもあるのだが、音が流れ始めた途端、再び一昨日と同じく、私はたちどころにその音樂の力に吸込まれ、たゞ感歎し、滿たされ、音樂が前に進むのを止めたくなる思ひに驅られながら、耽溺し續けてしまふ。その滿たされた時間を、言葉に定着したいといふ慾望は、おそらく、そこで私に働き掛けるこの無類の力の譯を解明したいといふ慾望でもあり、また、この感動を分ち合はうとすることから來るものでもあるだらう。

 いつも通り、本題にはなかなか這入らぬまゝ“故事”を引くが、小林秀雄がゴッホを書いてゐた時、毎晩酒盛になると、青山二郎にやつつけられた話は、大岡昇平や白洲正子が書いてゐて有名である。青山の言ひ分は、小林との對談『形を見る目』で一層鮮明だが、要するに、小林のゴッホを讀んでゐると、ゴッホを見た時の生な喜びや感動がすつぽり拔け落ちて、粗筋だけになつてしまつてゐる、何も感動をそのまゝ書かなくとも、繪を見た小林の感動が文體から出て來ないのはどうしてだらう。魚を釣る小林の手付きが讀者の目に鮮やかに見えて、讀者は喝采するのだが、その實魚はどぼんと水に落ちてしまつてゐるといふのである。「酒の席で小林が夢中になつて繪のことを話してゐる時には出てゐる感じが、どうして、文章だと拔け落ちてしまふのだらう。」――

 しかし、そこまで批評を讀んでくれる、精神の共同體があるからこそ、小林は批評を書くと云ふ營みに耐へられたのである。對象と交はる全力投球を文章にするといふ、思へば奇妙な情熱を保つことが出來た。しかも小林は繪が描けない。畫論も美學もろくに知りはすまい。彼に見えてゐたのは、繪を通じて、現れる人間だけである。繪や音樂を通じて、人間といふ生き物の最も根つ子にある眞實が直知され得るといふ確信なしには、彼は一歩もすゝめなかつたらう。さうした確信を、夢中になつて掻き口説くことの延長にしか、批評文の生命はない。掻き口説くには相手がゐる。精神の共同體は、ソクラテス、孔子以來、常に絶對的な少數者、顏の見える少數者の中で、心身深く交はることで、人間の探求を行つてきたので、小林の批評は、さうした人間の探求が、批評の形をとつたに過ぎず、その點ではヨーロッパのアカデミズムの中で展開された近代批評とは、實は無縁のものだ。それを云ふのならば、戰前までの文壇に支配的だつたのは、そのやうな絶對的な少數者による人間の探求といふ性格だつたので、それが如何に無手勝流であれ、文學技法として未成熟であれ、或る眞實に達してゐたのは、文學者らの、その確信の深さによる。

 批評も小説も音樂も、商業主義に、集團で身賣りして、本物の情熱と商賣とが乖離してしまへば、本物の情熱もしぼむし、商賣も空洞化する。私は、誰に向かつて書いてゐるのか。大學時代に批評を書き始めてから、この問ひへの苛立ちと不安から解放された事はない。氣休めは要らない。私に必要なのは、絶對的少數者、眞理を求めて、全人生を擧げて、私に付いてくるやうな、12人の使徒である。しかも、私は教祖ではなく、自ら使徒の1人でしかないのである。

 ……バレンボイムの《平均律》に戻る。今囘聽いたのは、勿論コンサートではなくレコードなので、樂譜を見ながら何度も聽ける以上、その音樂を一應記述してみることは不可能ではない。

 例へば、1番のプレリュードは、同じ音型が繰返される度に、呼吸するやうに、デュナーミクを繰返す。これこそは、この曲のピアノを用ゐた主要なレコードで、どのピアニストも採らないところである。こんな抑揚は、チェンバロには不可能であるから、バッハの辭書には、鍵盤音樂でこのやうな種類のデュナーミクはないと云ひたいのだらうが、ならば、何故ピアノを使ふのか。バレンボイムのデュナーミクは、呼吸のやうではあるが、しかし自然な呼吸ではない、音樂的な緊張を徐々に高めてゆく、寧ろ音樂的な昂揚を呼びさます呼氣であり吸氣である。音樂の表面は、靜けさが漂ふが、實際には、音樂の緊張に聽き手を釘付けにしながら、後半に音のドラマを作る。20小節の屬7の和音で緊張を高め始めると、音樂は23小節でフォルテに達するが、24小節ではスビドピアノ風に聲を潛める。こゝから屬音、ソのオルガン・ポイントが續く中で、改めて緊張の高まりを繰返し、終止は大きく溜息をつくやうに穩やかな表情だ。つまり、バレンボイムは、この小さな、平穩に流れる音樂から、チェンバロでは、奏者の内側では感じられてゐるのに、樂器の音としては出せない和聲進行に伴つたダイナミズムを、、正確極まる緊張と弛緩の劇として取り出してみせてゐる。

 だが、かう書いたところで、これだけの和聲的なダイナミズムを存分に取り出してゐながら、バレンボイムが、例の、フーゴー・リーマンの評した「オリンピアの平靜と晴朗」の印象を、それによつて高めこそすれ、誇張して臺なしにしてゐない絶妙さを、どう説明すればいゝのか。試しに私が今書いた通りに抑揚を付けて、彈いて御覽なさい。グロテスクな誇張になるか、それを避ければ、中途半端で、かへつて聽き手に慾求不滿を與へるやうな曖昧な線を描くだけでをはつてしまふだらうから。バレンボイムの、北ドイツの暗鬱さと正反對な、陽光燦めく地中海を爽快に走る帆船のやうに爽やかなダイナミズム。殊に後半、ぐんぐん伸び廣がる視界の氣持よいことと云つたらない。さう、正に、地中海を走る帆船から眺められた「オリンピアの平靜と晴朗」! (續く)