アルマ・マーラー著『グスタフ・マーラー―愛と苦惱の囘想』石井宏譯(中公文庫)(2)(2008年4月9日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年04月09日より)

 アルマの文章が、マーラーのシンフォニーの最上の演奏のやうだといふことを、説明するのには、彼女自身の文章を引くに若くはない。例へば、彼女が、自分の2度の出産をこんな風に語るところはどうであらうか。

 「危險な分娩が終はるのを心配でいらいらと首を長く待ちながら、隣の部屋で彼があちこちあばれている樣子が私にまできこえてきた。やっと無事に終わった時、彼は絶叫した。「なぜ人間はこんなにまでつらい思いをしながら子供を生み續けて行かなくちゃならないんだ。」私のベッドの横にやってきた彼は激しく泣いた。おくればせながら、子供が臀位であった話をすると彼は目茶苦茶に笑ひころげた。「それでこそぼくの子だ。世の中のやつに見せるのは尻で十分だ。」」

 2度目の出産の場面はかうである。

 「私の痛みをやわらげるために考えつく限りのことをしてくれた。しかし、彼が最善だと思ったのは、カントを大聲で讀むことだった。私は彼の机に坐り、激痛に身もだえした。單調な朗讀の聲はいらいらさせる。彼の讀んでいることは一言もわからなかった。私はついに我慢がならなくなった。」

 妻の陣痛をやはらげる爲にカントを讀む馬鹿な男は、世界廣しと言へども、さうはゐまい。だが、私は、これを面白い逸話と思つて引用してゐるのではない。これは、マーラーといふ創造の魂の内部の風景であり、音であり思想である。外側から描かれた興味深く風變はりな話と呼ぶには餘りに痛々しい。激痛に身悶えしてゐるのは、アルマではなく、マーラーの魂である。人間の生が負つてゐる不思議な苦痛の出所を押さへて、泣き喚いたりひりつくやうに哄笑してゐるのは、マーラーの創造力そのものであり、これは子供の出産といふよりも、マーラーの音樂の出産の現場であるかのやうである。

 一方で、大變目に付くのは、リヒャルト・シュトラウスに對する極度に辛辣なアルマの筆である。マーラーに匹敵する音樂上の天才は、同世代で、シュトラウスしかゐなかつたし、兩者が懇意にしてゐたのは、音樂ファンには周知のことだし、アルマこそは、その事實を誰よりも知つてゐた。それゆゑにこそ、遠慮會釋ないアルマの筆の主觀で歪みきつた肖像の眞實は、また深い。

 本書で、シュトラウス夫妻が始めて登場する場面は、妻のパウリーネがリヒャルトを罵る大喧嘩のシーンである。シュトラウスのオペラ《火の缺乏》といふ駄作が聽衆の喝采を受けて、氣分よく樂屋に飛び込んできたリヒャルトに、パウリーネは「山猫のように襲ひかかつた。「この泥棒め、消えてなくなれ。一緒には行かない、胸がむかむかするわ」」

 これが、2人の、讀者への披露目である。そして、御想像の通り、シュトラウスが、パウリーネにこてんぱんにやつけられる喧嘩が一しきり續くが、1段落ついた後のリヒャルトを、アルマはこんな風に描いて、落膽のシュトラウスに追打を掛ける。

 私が見てさえ、その夜のシュトラウスには彼の本性がよく現われていた。食事の間じゅう、彼の念頭にはお金のことしかなかった。大當たりをとればいくら、普通に行けばいくら、と正確に印税を計算すべく、いちいちマーラーにからんでいた。そしてその間、鉛筆を握りづめで、時折耳のうしろにはさむ。それも、半ばは冗談としても、彼のそうした振舞は、まるで行商人のようにみえた。

 こんな部分は、笑つてしまふ外ないが、それでも、その遠慮會釋ない書き方は、人間に本當に可能な唯一の公正さなのだと、私は思ふ。本書の執筆時期、ナチスが擡頭する中での、政治的・人種的な問題、マーラー歿後のシュトラウスのマーラーへの態度などへの不快が、彼女の筆をかくも辛辣にしたと言つてしまへば、話は詰まらなくなる。世の中には、裝ひさへすれば、公正な態度は容易だと思ひ込んでゐる、底の淺い僞善者が何と滿ち溢れてゐることだらう。學者から、批評家から、音樂の聽き手から、そして當の音樂家に至るまで! だが、こゝまであけすけに書かれゝば、このシュトラウスの肖像はまた、マーラー夫妻の鏡像にもなつてしまふ。さうした全體を讀むことが、讀書の醍醐味であり、書物を通じて人間の魂に出會ふ不思議といふものではあるまいか。

 この本には、殆ど神經的と思はれるやうな笑ひと機智とが滿ち溢れてゐる。そして、その壓倒的な中心、震源地は常にマーラーだ。20代だつたアルマは、自分の女性としての卓拔な魅力をも、マーラーとの結婚生活の異樣さをも知らず、本書中の言葉を藉りれば、いはば「マーラーの影」だつたと、本書は繰返し語つてゐる。

 それに對して、本當にさうだつたのか、と問ふことは、無意味である。何故ならば、アルマが、本當に影であつたかどうかは、マーラーの音樂にも、この本の傳へる言外のニュアンスからも、餘りにも明らかだからである。アルマと結婚する以前にマーラーが完成させてゐた作品は、第4交響曲までであり、アルマとの結婚生活の中で書かれた作品は《第5》から後、特に2人の生活が深く結びあつて作品に明らかに姿を見せてくるのは《第6》からだと言つていゝだらう。《第4》までのマーラーの作品にあつた、堅牢な精神的安定が、《第5》とりわけ《第6》で失はれ、かはつて、極度に研ぎ澄まされた神經的な過敏さが、全曲に、耐へ難い程無理な緊張を強ひてゐる。

 《第4》までの安らぎの感覺、或る種の勝利や救濟への信頼が、以後のマーラーの作品で、2度と取り戻されたことはなかつた。子供の死によつて『大地の歌』以後の作品が生れたとすれば、あのやうな晩年の作品の彼岸への眼差し、安らぎではなく諦念へと傾く、そこの至る強烈な消耗の過程に、アルマとの結婚がかゝはりなかつたとは思へない。

 そして、それは、アルマが隱蔽したり歪曲した事實なるものを復元するまでもなく、本書に、全て赤裸々にしるされてゐる。或る生涯の事實は隱せても、アルマがもつて生れてしまつてゐる、優れた人間洞察力を、消すことは出來ないからだ。アルマ自身が、書いてゐるやうに、若き彼女は、確かにマーラーの「影」であつた。お互ひの愛憎、互ひの男と女としての支配―被支配の關係が、文目も分てぬ程に深く、マーラーその人の生の足許から生えて背後から彼の無意識を支配する程強く、彼女はマーラーの「影」であつた。

 その意味で、この囘想録も又、『詩と眞實』である事は當然だが、もう一歩踏込んだ言ひ方をすれば、こゝでは「詩」こそが、「眞實」である。白状すれば、私は、どんなマーラー文獻、或いはどんなマーラーのレコードより以上に、この作品によつて、マーラーを眞劍に聽き直す思ひに、今驅り立てられてゐるところなのである。

 ちなみに、私の讀んだ文庫版は、書簡部分が省略されてゐるので、完全な版は、單行本に據る他はない。だが、石井宏氏の譯文は素晴しい。精彩と躍動が巧まずして傳はる名譯と言つていゝだらう。ちなみに石井氏には、同じ中公文庫に『素顏のモーツァルト』といふモーツァルト傳があるが、難しい專門的な評價はべつにして、これはモーツァルト傳の傑作だと思つてゐる。單にモーツアルト傳といふにとゞまらない。日本人は、讀み手を人生に誘ふやうなたつぷりとして、且つ讀み易い傳記作品を書くのが不得手なのか、どの分野でもいゝ傳記が少ない。これは、ジャンルを超えて、日本人の手になる優れた傳記だと評してよからうと思つてゐる。少くとも、私は日本人の書いた藝術家傳としては阿川弘之氏の『志賀直哉』(新潮文庫)と竝び、熱愛の書である。それにしても、石井氏は、この筆力で、ヴァグナーの生涯などお書きにならないものだらうか? 私が音樂雜誌の編輯者なら、是非書いていたゞきたいとお願ひに上がるところなのだが……(了)