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ワレリー・ゲルギエフ コントラ ダニエル・バレンボイム ストラヴィンスキー作曲《春の祭典》3 小川榮太郎(2008年05月09日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年05月09日より)

 さて、今日は、バレンボイムの《春の祭典》を取上げるが、そもそも、作品への私の評價が變はらない以上、バレンボイム/シカゴ盤に對する印象が、ゲルギエフに較べ、大きく異なつたものになる譯ではない。しかし、それでも、この2人の《春の祭典》の間には、橋を架けることが難しい程、大きな音樂觀の隔りもある。レコードを聽く愉しみは、主に、較べることにある。それは音樂の一囘性を正面から否定する見解だが、レコードに、無理に、さうした一囘性を假定して聽くのは、事實の問題としては、やはり不自然であらう。レコードといふ極めて人工的な樂しみは、注意しないと音樂との關係を不潔にする危險に滿ちてゐる。それは誰でも知つてゐるところである。演奏を比較するといふ聽き方も、下手をすれば、音樂から聽き手を遠ざける、心理的な遊戲に墮しもするだらう。だが、その危い橋を邊りながら、コンサートの經驗だけからは見えてこなかつたやうな作品のエートスの意外な所在を發見することは、レコードによる比較試聽ならではの贅澤だ。先日來、比較を正面から打出したレコード批評を試み始めたのも、その事を、寧ろ、誤魔化さずに、正面から書いてみたくなつたからである。

 さて、今囘の比較試聽では、ゲルギエフ盤の後、すぐにバレンボイム盤を立て續けに聽いてみた。すぐに氣が附くことは、バレンボイム盤が、ゲルギエフ盤に較べ、録音で劣ることである。音質の重量感と奧行、また、打樂器を含めたテュッティの、空間への廣がり感にやゝ缺けるのである。私は、物知らずで、バレンボイムが、どうした契約上の成り行きで、今、テルデックに落著いてしまつたのかは、知らない。だが、事情はどうあれ、テルデックの如何にもデジタルに整理された音は、バレンボイムの生演奏の實情に、著しく合致しないと云ふ他はない。グラムフォンレーベルに戻る譯にはゆかないのかといふ感想は切實である。オーケストラのサウンドの收録に關しては、グラムフォンが、私の好みには近いのである。最近では、マゼール=ニューヨークフィル、ティーレマン=ミュンヘンフィルなどのレコードは、やはり、グラムフォンならではの音であらう。音の深い質感と空間性だけでなく、演奏の品位が、たつぷりと音として入つてゐる氣がするのである。

 だが、バレンボイムの演奏そのものは、素晴しい。ゲルギエフのやうに、要所での、度膽を拔くやうな強奏や刳り、打樂器の空間感まで取込んだ見事な録音で、耳を奪ふ外向的な芝居がかりはない。芝居は無さ過ぎる程だ。曲の性格上、それが物足りない憾はやはり殘る。だが、その代はり、音樂は、ゲルギエフ盤に較べて、遙かに多くの、品格と細部の雄辯とを取り戻してゐる。注意深く聽く程に、野蠻な亂舞ではなく、獨特の秩序へと丁寧な歌に導かれる氣品の高さに、ゲルギエフ盤のやうな、心すさみは感じずに濟んだ。尤も、それが《春の祭典》の再現としてふさはしいのか、樂曲の性格の歪曲になるのかの判斷は、難しいだらう。

 バレンボイムの《春の祭典》は、一言で云つて、拍節感と、歌への志向が強いのである。第1部の「春の萌し」など、音樂を吹き鳴らして疾驅しようとせず、じつくり歌はうとする粘着力は、如何にも、《春の祭典》の中に、ドイツ音樂風の語法を持込んでゐるやうに聽こえる。割切れた演奏では全くない。圓熟のバレンボイム固有の、太い流れを貫く雄渾な《春の祭典》だが、外に向かつて發散してゆく音響のアートではなく、内的なドラマへと《春の祭典》を讀み換へてゐる深さがある。「春のロンド」など、あえぐやうに春の蠢動を描くゲルギエフを聽いた後には、バレンボイムは如何にもあつさりと流してゐる。だが、改めて耳を傾け直すと、そこには、歌ふ流れの氣品によつて洗ひ直された鮮麗が發見されてもゐる。あの唸り喘ぎの代はりに、哀愁が遠く流れるやうなのである。

 第2部は、一層興味深い。「序」は、濃密な音樂的イントネーションが、音樂に餘りにも樣々な「意味」を發生させてしまひ、恰も、シェーンベルクのやうだ。獨特の歌の「線」が見えてくるのである。ストラヴィンスキーが聽けば、激怒しかねまい。

 第2部後半に頻出する變拍子さへも、ゲルギエフの直情徑行とも、今日の若手指揮者らの、デジタルな處理とも、まるで違ふ。バレンボイムの指揮だと、變拍子は、單に樂々と處理されてしまつてはならず、音樂的な歌としてリザーヴすべく、奏者はアンサンブルしなければならない。アンサンブルとして成立させようとする奏者らの腐心の表情が、ありありと見えて來るやうなのが面白い。ゲルギエフ盤の、鮮烈なフォルティッシモの炸裂に騙された耳を冷まし、こゝろ澄まして、バレンボイム盤をじつくり聽き直してみよう。この變拍子のクライマックスでさへ、ゲルギエフが頓着しなかつたあらゆる細部に於て、實に豐かなイントネーションに滿ちてゐるのに、改めて驚かされるだらう。例へば、第2部最後の、金管に繰返し表れる怪獸の咆哮みたいなモチーフ。あれ1つとつても、バレンボイムは、レガート風に念を押し、モチーフ後半に重みを掛ける。しかも、そのモチーフを、變拍子を刻む他の樂器奏者らが、よく聽きながら演奏してゐる。その結果、音樂は、變拍子に乘つた、純粹な舞踊の忘我の猛り狂ひから、皆が共同して一つの音樂的意味を作り上げる、アンサンブルの藝術に變貌する。恰も、新語法で試みられた、ヴァグナー風に意味する藝術の、再生であるやうだ。

 このやうなバレンボイムの行き方は、原色の線のシンプルな交錯から、大膽な音の叫びを取り出したストラヴィンスキーの美學に、明瞭に違反するものだらう。ストラヴィンスキーはカラヤンの洗練された《春の祭典》を輕蔑してみせた。だが、このバレンボイム盤の場合は、激怒しかねない、先に私がさう云つたのは、美學的な意味での根本的な讀み換へ、或いは振り戻しが、こゝにはあるからだ。

 バレンボイムの指揮による、後期ロマン派の風合を帶びた《春の祭典》は、この音樂が、ドイツ音樂傳統と存外根深く連續してもゐて、そこから自由になつてはゐないといふ側面を明らかにしたと云ふことは可能だらう。付け加へれば、そのやうにロマン的な歌の殘響の中で洗ひ直された演奏の品格が救ふことになつた美も多かつたらうと、私には思はれる。

 《春の祭典》といふ音樂に、實のところ、最近の衰弱した私の心は、思ひがけないほど、傷付いてしまつて、喜び勇んで感動を語る氣持になれなかつたことは、諒承していたゞきたい。名盤較べといふ私の遊びは、この場合、憂鬱といふ厭な代償を拂はねばならなかつた次第になるが、發見がなかつた譯ではない。結論を云へば、この2枚の名盤較べでさへ、私の軍配は有名なゲルギエフ盤ではなく、バレンボイム盤に上がることになる。世評からも、2人の出自からも、これは不當で強引な言ひ分であるのかもしれない。だが、それでもなほ、バレンボイムの《春の祭典》が、この曲の、音樂史的連續の側面を明らかにしたといふ感想は、意義のないものだとは、思つてゐない。

 無論、本論で述べたやうに、ゲルギエフの指揮は、この曲の美學的な適性からは、バレンボイム盤を持ち出すまでもなく、遙かに正統なものである。それが充分に音として實現されてゐる點では、希有なレコードだとさへ云へるだらう。その事は充分評價した上での、私の好みが、バレンボイムに傾くのだと諒承していただければ、構はないのである。

 演奏家にも、料理や水同樣、身體に合ふ合はないがあるとすれば、ゲルギエフは、この盤のやうに、最も評價すべき演奏の場合でさへ、私の身體には著しく合はないといふことなのだらうか。批評の公平さとは、己の、さうした限界を率直に告白することの外にないと痛感される所以である。(この項了)

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