ウィーン・フォルクスオーパー來日公演第1日 ヨハン・シュトラウスⅡ作曲 オペレッタ《こうもり》(5月23日於東京文化會館)1(2008年5月30日)


(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年05月30日より)

指揮:レオポルト・ハーガー 演出:ハインツ・ツェドニク ロザリンデ:ナンシー・グスタフソン アデーレ:ダニエラ・ファリー オルロフスキー公爵:ヨッヘン・コワルスキー アイゼンシュタイン:ディートマール・ケルシュバウム アルフレート:ルネ・コロ他

 フォルクスオーパー初日の《こうもり》を聽いた。

 愉しかつた。かういふ歌芝居の文句なしの愉しさを棚に上げて事々しい批評を書かうなどといふ人間がゐるとすれば、餘程不幸せな人間か、美肴にも美女にも縁のない唐變木だけだらう。

 フィラデルフィア管弦樂團の來日公演と發表順が逆になつたが、要するに、單純に幸福な體驗を書き留めるのに急ぐ必要などなかつたからである。この日、私は、伊豆の自宅から直かに會場に向かつたが、その車中で、ショスタコーヴィチの『證言』を熟讀してゐた。これこそ、陰慘な現實に辛うじて打ち克つた偉大な魂の記録で、私は僞書だとは考へてゐない。その根據はいづれ書くが、こゝには、彼の音樂と全く同質の、強烈な倫理的な性格があり、泣き笑ひがそここゝに聞こえる。それを直視せずに、成立事情の側からばかり「眞相」を推定しようとするのは、現代アカデミズムの惡い癖である。書かれてゐる事實は、凡そ人間の犯した最も慘鼻で冷酷な政治體制の中での人間の悲喜劇だが、それが悲喜劇だと讀めるのも、書き手の尋常ではなく類稀な、精神の強靱による。翌日のショスタコーヴィチの《第5》の公演を、出來るだけ、作者の精神の近みで味はひたいと思つてゐたので、あへて選んだ讀書だつたが、無論のこと、氣は滅入り、言葉もなくぶちのめされてしまつてゐた。

 《こうもり》を聽く前に、かうしたスターリンの處刑政治のレポートを讀むのは、大變良いことだつた。《こうもり》といふ作品の笑ひと美しさとが、筋金入りのものであることが、心底理解出來るからだ。オペレッタが始まり、幕が開いて暫くすると、私は、すつかり、この作品の放射する人間的な眞實と美しい音樂の虜になり、腹の底から笑ひ出してゐた。あの書物の惡夢を忘れたからではない。あゝした陰慘と、別の形をとつてはゐても釣合の取れるだけの、人間的眞實が、こゝにあるといふ手應へが、私の心の強ばりをほどいてくれたのである。輕薄な作品ではない。消閑の笑ひではない。ウィーン氣質に就て何かを言へるやうな何一つの知識も私にはないが、もし、これがウィーン氣質の典型だとすれば、彼らは、ロシア人同樣、スターリンの政治にも耐へられただらう。實際に、彼らはナチスによる大ドイツの併合を經驗した。さうした全體主義の悲慘まで行かずとも、辻褄の合はぬ不幸な政治には慣れつこで、それをやり過ごして、なほ逞しく生きる人間の老獪さと、人生への愛が、こゝにはある。

 序曲の演奏は、正直なところ貧弱で、先行きの心配はあつた。フォルクスオーパーは、歌劇場といふよりは芝居小屋と考へた方がいゝことは分つてゐても、來日オペラでは、豪華絢爛な管弦樂演奏が當然になつてゐる私どもの贅澤な感覺からすれば、出て來る音の現實を誤魔化すことは出來ない。もちろん、ウィーンの傳統の典雅な響きなど、藥にしたくもない。そんなものが實在しない、音樂商賣上の「開け胡麻」に過ぎないことは、角南氏と呑む度の、私どもの、酒の肴である。「豪華なエントランスと遠く聞こえるさざ波が、あなたを夢のリゾートにお出迎へします。」「フランス仕込のシェフによるエシャロット、ジビエ……輝くシャンデリアの元で、寶石のやうに泡立つローラン・ペリエが、あなたを幻想のパリにお招きします。」「まるで、こゝがウィーンであるかのやうな、ウィンナトーンに醉ひ癡れる、魔法の4時間が、あなたを……。」おしやれや贅澤は、金で買ふものではない。或る經驗を贅澤なものにするのは、彼自身の人生態度の洗煉であり、教養だらう。勿論、ウィーンに、ウィンナトーンは實在せず、また、音樂は、さうした空虚なおしやれとはかゝはらないのである。

 まして、《こうもり》である。何せ、この曲には、例のカルロス・クライバーの飛切り魅力的な上演が、DVDで出てゐて、―多くの方がさうだと思ふが―私も《こうもり》になじんだのは、この映像によつてである。あれは、歌手たちも素晴しいけれど、主役はクライバーと言ふ他はなく、序曲だけで、當日居合せたお客も、映像を通して聽く私たちも、もうこの人に首つたけになつてしまふ。それほど鮮麗を極めて、本當に上等なシャンパンのやうな演奏。オーケストラはミュンヘンのオペラハウスだが、あれこそ、最高に粋で、最高におしやれな時間である。今日の演奏をそれと比較するのは、始めから間違つてゐるにせよ、さうかと云つて、あれを思ひ出さずに《こうもり》を聽き通すのは、私には、簡單なことではないのだ。

 だが、舞臺が開き、コロのヴァグナー風のアルフレートが舞臺裏に聽こえ、アデーレ役のダニエラ・ファニーが爽快なコロラトゥーラで登場した途端、私のこゝろからは不安も不滿もかき消えた。いや、歌手たちの何といふ素晴しさ。とにかく、役處にはまつてゐる。身に著いた音樂を歌ふ喜びが舞臺を生きたものにする。序曲では貧弱だつたフォルクスオーパーのオーケストラも、伴奏になると、實に勘所を心得た音樂をやるのである。無論、彼らにしてみれば、當然のことで、日本人が、こんな“批評”をしてゐるのを讀んだら、さぞかし氣を惡くするにはちがひない。(この項續く)