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ウィーン・フォルクスオーパー來日公演第1日 ヨハン・シュトラウスⅡ作曲 オペレッタ《こうもり》(5月23日於東京文化會館)2(2008年5月31日)


(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年05月31日より)

 レオポルド・ハーガーの指揮は、歌手を立て、その下支へに徹するものだつた。おつとりとしてゐて、テンポは遲い。歌手たちが餘裕をもつて自分の歌を歌ふことが出來るテンポだ。昔のクレメンス・クラウスやら、ウィリー・ボスコフスキーやらの指揮振りに近いと云つていゝ。要するに指揮者の藝術ではなく、歌手たちのアンサンブルが主役の《こうもり》である。そして、さうした意味でなら、これがウィーンの傳統的な演奏だといふ言ひ方を、私は、無論、否定するつもりはない。

 演出もまた、全くオーソドックスなものだ。細部にくすぐりは澤山用意されてゐたが、原作が面白いのであるなら、正攻法こそが、原作の面白味を1番味はひ濃く聽衆に傳へられるといふ平凡な眞理の、1つの例證だつた。私が知る舞臺の中では、今日は、芝居の比重が大變高い。省略が少ない上に、相當な書き加へもありさうである。

 例へば、1幕で、アイゼンシュタインが、舞踏會に出ることにこゝろを決め、自分の靴の場所を尋ねた時、夫人と同時にアデーレが「私のベットの下よ。」と答へてゐたが、これは、私は、今まで聽いたことのない科白だ。アデーレとアイゼンシュタインの間に、情事ありといふ暗示としか思へないが、これは、原作にあるものなのだらうか? 書き加へにしてはちよつと凝つてゐるから、原作にありさうにも思はれるが、今、手許に總譜がないので、確かめられない。たゞ、今まで私の知る上演では、アデーレは旦那を、旦那は小間使を、それぞれ輕い氣持でいなしてゐるといふ設定が、一般的である。旦那が誘惑したとしても、アデーレの側で言ひなりになりさうには思はれないといふ印象だ。情事ありが原作の暗示ならば、私のこの作品への印象はかなり大きな變更が加はらざるを得ない。アルフレートに對する夫人の感情も、今日の演出では、かなり露骨に燃えてゐて、かういふことは、最近では寧ろ普通になりつゝあるのだらう。1昨年プレミエの、ザルツブルクでの《フィガロ》では、關係者全員が、かなり濃密にセクシュアルな感情を抱きあふ演出だつた。(アーノンクール指揮、ネトレプコのスザンナで話題になり、CDもDVDも出てゐる。)あそこでの伯爵夫人や、《バラの騎士》の元帥夫人のやうに、社會的な立場のある中年の女性の、内側に燃えるセクシャルな情念といふものを、演出が露骨に示すのは、最近の傾向である。創意工夫のない話だと思ふが、今日のは、まあ構ふまい。元々、作品自體に、品下るやり取りが滿載で、さういふ面白さを、一層深讀みすれば、それぞれの人物の下心には、滑稽味も増す。皆の思惑の違ひの中で、實は、一番純情だつたのが、譯知り顏をしてゐるアイゼンシュタインだといふ原作の味はひは、今日の演出では、かへつて徹底してゐ、それがペーソスになつてゐた。

 だが、さうした幾つかの深讀み演出が生きたのも、要するに歌手たちの力、特に、歌としての魅力が、大きなものだつたからだ。グスタフソンのアイゼンシュタイン夫人は、やゝ重いドラマティックな聲だが、餘裕のある歌唱だつた。チャールダッシュも勢ひで聽かせる風はなかつたし、フィナーレも輝かしさには缺けたが、存分に樂しめる水準だつた。コロもいゝ。高音に限界はあるが、かうしてオペレッタの中で聽くと、さすがにヴァグナーテナーの聲は、殘映でさへ、壓倒的である。アイゼンシュタイン、フランクも、ファルケも、演技、歌唱共に高水準で、そこにも、《こうもり》の人氣の祕密はありさうである。どの役柄も、それぞれに役得が用意されてゐて、效果を擧げやすいのであらう。
さうした歌手陣の中でも、とりわけ存在感のきはだつてゐたのは、コワルスキーのオルロフスキーとファリーのアデーレであつた。

 コワルスキーは、カウンターテナーで、オルロフスキーでは記録の限り、この人のが、始めてではなかつたらうか。確か、數年前ウィーンかどこかでのプレミエで話題をさらつたと記憶してゐる。男らしい色氣がきはだつ風貌だが、演技と聲とで、エキセントリックな、その上やゝ同性愛的な傾向を見せるオルロフスキー像は、印象的だつた。話してゐる時は、當然ながら男聲で、歌になるとカウンターテナーなので、それだけで始めはびつくりするが、聲にも、粘り着くやうな存在感がある。オルロフスキー役では、昔見たベームのDVDで、ヴィントガッセンの、立派な風貌とひどく無氣力な歌の對比とが、印象に殘つてゐるが、あれ以來の驚きだらうか。クライバーの映像では、メゾ・ソプラノのファスベンダーがオルロフスキーだつた。彼女は、勿論、聲も演技も1級品だが、オルロフスキーとしては、いさゝか、晴朗快活で、快男兒過ぎたかもしれない。性格描寫ではなく、クライバーの指揮に見合つた、引き締まつて瞬發力のある歌唱を樂しむ演出だつたらう。

 だが、今囘、私が一番喜びを覺えたのは、ファリーのアデーレだ。この人は、履歴をみると、まだ、ウィーン音樂大學卒業から日を經てゐない若い人のやうだが、歌唱も演技も1級品である。女中役には、美貌がきはだち過ぎるかもしれないが、演技も、歌手の演技特有の不器用さが微塵もない。身體と科白を充分にこなして、目覺しい。コロラトゥーラも、本當に凄かつたし、聲色も豐富に持つてゐる。いたづら心もあつて、イーダに「歌手に化けてみようか」と持ち掛けて、試しに歌つてみる場面では、ひどい地聲を披露して、聽衆を笑ひで沸せてゐた。とにかく、演ずることが樂しくて仕方ないといふ喜びが、吹きこぼれるやうで、彼女が舞臺に現はれると、それだけで、晴れやかである。歌心が溢れてゐる。本物の歌手だらうと思ふ。將來が樂しみである。

 歌こそ歌はないものゝ、ツェドニクによるフロッシュの演技力も、ひつきりなしの笑ひを生みながら、なほかつ、芝居の流れを引き締める見事なものだつた。尤も、フロッシュに關しては字幕の秀逸と切り離せない。新聞を顏に被せたまゝ寢入つてしまふ所長のフランクを見て、「所長はマスコミの壓力に苦しんでをられる。」とやつたのには、會場が爆笑でどよめいた。3幕中笑ひ聲が絶えなかつたと云つていゝ。歌芝居を堪能しきつた3時間であつた。

 それにしても、NBS(日本舞台芸術振興会)のオペラ招聘は、いつも、極めて高水準の仕事振りである。感謝に堪へないし、他の招聘元は、少しは爪の垢ならぬ耳の垢でも煎じて飮んで貰ひたいと、かうした場所ではつきり書いておきたい。私の印象では、他の招聘元の招く外來オペラの多くとは、上演水準に大きな差がある。餘程緻密な準備をされてゐるのだと、推測してゐる。去年のベルリン國立歌劇場がどれ程見事だつたかは、この欄でも繰返し書いたが、その前のフィレンツェオペラも、オペラファンの琴線にまことに巧みに觸れてくるいゝ舞臺だつた。前者はバレンボイムの指揮、後者の《フォルスタッフ》《トゥーランドッと》は、演出と歌唱と、魅力のポイントは異なつてゐたが、オペラを堪能したといふ氣持に、とにかく滿たされるだけの上演は、必ず用意してゐる、それがNBSである。

 NBSが招聘するオペラには、いづれも、制作者と出演者全員の、手作りの舞臺、手作りの“アンサンブル”といふ風合が強く、それが與へる印象はまことにすがすがしい。最近の引越公演では、大物の歌手と有名な歌劇場を組合せただけで、音樂や舞臺の印象が、ばらばらなものが多い。最近では、去年のドレスデン國立歌劇場、をとゝしのローマ國立歌劇場が、さうした上演例として、すぐに思ひ出される。かうしたことは、偶發的な事故に見えるが、公演に通ひつづけてゐると、舞臺上演全體の質の善し惡しが、主催者によつて、大きく左右されてゐることに、氣づかない譯にはゆかなくなる。

 今囘のフォルクスオーパーのプログラムで、NBSの佐々木忠次氏が書いてゐる挨拶文は印象的だつた。「親しみやすいと言われるオペレッタですが、それは単に駄洒落を言ったり、外国人歌手に日本語を喋らせて笑わせるものではありません。今回もフォルクスオーパーの総裁には、オーケストラと合唱の充実とともに高い音楽的レベルの舞台を要求しており(以下略)」

 要するに、こゝには、批評があり、主張がある。それを主催者挨拶としてはつきりと公言出來るだけの、自信と自負とがある。かういふ挨拶文で、役人の作文そのまゝの御挨拶しか書かうとしない日本人の傾向からは、これはまことに異例のことだ。當然、英文にも譯されてゐる。オペラハウスや關係諸氏も、目を通す。目を通した時に、役人の口上のやうな挨拶が、外務大臣以下あらゆる後援企業の代表取締役名義で連なる中、この文章に、思はず目を止める筈だ。こゝには、建前や金まうけではなく、本當に文化としてのオペラを愛し、日本の聽衆に、質の高い制作を提供することに、情熱と夢を傾けてゐる男がゐる、何と珍しい日本人だらうか、と。それは、惡くないことだ。

 無論、勘繰る者もあるまいが、私は、NBSとも佐々木氏とも、何の面識もない。社會的にはたゞの素浪人で何の影響力もない人間だ。だが、外來公演を長年あれこれ聽いて來た者としては、主催者の仕事の質といふことは、思ひの外、強い影響を上演の出來榮えに齎すことを、默つてゐるのは、いゝことではないと考へる。この機會に、その一端を書き記すゆゑんである。

 今日の日本人を、概して、氣持よく信用したり、愛したり出來なくなつてゐることを、私は非常な悲しみとしてゐる。その理由の1つは、個人の名前を堂々と出して、良いと感じたものには良いと主張し、その根據を誠實に語り續けようとし、惡いと感じたものには率直に惡いと主張し、その根據を誠實に語り續けようとする、古今東西を問はず、全體主義政治以外の状況では、知識人の常識だつた知的誠實を、現代日本人が、著しく缺いてゐることである。私が、あへて、NBSの招聘上演が、他の主催者とのそれとは、仕事の質に於て段違ひにいゝといふ判斷を、はつきりと書き留めておきたいと思つたのは、さうした理由からでもある。

 日本の聽衆たちよ! それこそお役人の挨拶文宜しく、或いは、言葉を奪はれた江戸時代の貧農宜しく默つてゐないで、音樂會の良いと惡いや、チケット代の高い易いに對して、もつときちんと聽衆の判斷を示してゆかうではないか。批評の言ひなり、宣傳の言ひなり、名聲の言ひなりになつて、高いもの、有名ブランドを有難がるために、コンサートに行くといふのは、話があべこべで、哀れではなからうか?

 をはりにオペラファンに朗報を御報告したい。今日の、公演プログラムによると、NBSによる2009年~2011年の招聘オペラの概要が決まつたやうである。2009年はダニエル・バレンボイムとダニエル・ガッティ指揮のミラノ・スカラ座、2010年は、アントニオ・パッパーノ指揮のロイヤル・オペラ、2011年は、ズービン・メータ指揮のフィレンツェ歌劇場と、ケント・ナガノ指揮のバイエルン國立歌劇場である。バレンボイム=スカラ座の早速の來日は嬉しい。演目は《アイーダ》である。しかし、バレンボイムが1演目とは淋しい。先頃、ロンドンで成功を收めたベートーヴェンピアノソナタ全曲演奏會を東京で開催してもらへないものだらうか。この3年の間に、ニューヨーク、ウィーン、ベルリン、ロンドンで開催され、いづれも熱狂的な大成功が傳へられてゐる。EMIのベルリンライヴのDVDを見れば、その音樂的な成熟は明らかである。日本の批評家は、ぼんくらでも、バレンボイムのコンサートには、東京の聽衆は他の大都市と同樣、殺到してゐる。公演實現を期待したいところである。ガッティ、パッパーノ、ナガノは、私が今最も聽きたい指揮者たちで、これに、ティーレマンと大植を加へれば、現役世代で私の偏愛する指揮者のリストは、とりあへず仕上がつてしまふ程である。どの上演も、心待ちに待たれる。正式な發表は7月のやうだ。無理算段しても、また、オペラフェスティバルといふ3年の長期會員券を購入することになりさうである。(この項了)

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