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クラシカ・ジャパン放映 マスネ作曲《マノン》5幕(1)小川榮太郎(2008年09月01日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年09月01日より)

指揮=ダニエル・バレンボイム/マノン・レスコー=アンナ・ネトレプコ/騎士デ・グリュー=ロランド・ヴィラゾン他/演出=ヴィンセント・パターソン ベルリン國立歌劇場(2007.5.3~9)

 ずゐぶん長い事、投稿をさぼつてゐて、恐縮である。人生の主軸に据ゑるやうな批評の對象として、最初の一人に誰を選ぶか、近代日本の文學上の先輩から選ぶ事だけは決めてゐて、昨年暮以來、三島由紀夫、川端康成と、檢討を加へ續けた擧句、極めて平凡なやうだが、小林秀雄の、本格的な、遠大なる長篇評傳をやる事に、八月十三日、意を決した。その爲に必要な讀書量が厖大なものとなり、一層、音樂に就て何かを書く時間が割けなくなつてゐる。それでも、少しづつ、時評的な發言と、感銘を受けた經驗とを記録してゆきたいとは思つてゐる。諒承願へれば幸ひである。

 ところで、この處、角南氏が、久々にまとまつた原稿を投稿してくれてゐる。教會の響きと西洋音樂の發生といふ主題に就ては、調べただけの歴史書ならあるが、文化史的な考察を充分生き生きと働かせてゐる著書は、西洋人の書いたものにも餘りないのではないだらうか。彼らにとつて、教會の響きは、幼少時から日常的で、批評的な反省の對象にならないからだらう。角南氏の論考は、まだ、メモ書の段階とは云へ、徹底して考へてゆけば、日本人でなければちよつと書けない種類の文化史になると思ふ。ブログでの掲載といふ事を離れても、本格的に纏めてもらへれば嬉しいと思つてゐる。

 マスネの《マノン》などに、まさか、かうも感激の涙を絞らせられるとは思つてもゐなかつた。二流の作品の、壓倒的と呼ぶ他ない、偉大な上演であり、圖らずも、私は、2日續けてテレビ畫面の前に釘付けになつてしまつた。しかも2日目に一層濃やかな感銘があつた。私はクラシカ・ジャパンで見たが、グラムフォンからDVDで發賣されてゐるものゝやうだから、興味ある方は買つて聽いてみるといゝ。それに値する上演だと思ふ。

 實のところ、フランスオペラにはさしたる興味がない。最近、クラシック音樂では、レパートリーの再擴大が圖られてゐて、フランスオペラの上演機會が増えてゐる事は知つてゐたが、特に食指をそゝられた事はなかつた。今囘のお目當ても、バレンボイム指揮の新しい映像といふ點にあつて、マスネの《マノン》にはまるでなかつた。變な曲をやるものだと思つたが、とにかく、近年のバレンボイムの、芳醇に成熟し、喜びと緊張との、強い絲の張り切つた「音」に、映像でも構はぬから觸れたいと思つただけだ。が、蓋を開けてみれば、そのバレンボイムは、こゝでは完全に黒子に徹してゐて、今囘の上演は、今、大評判のネトレプコとヴィラゾンの壓倒的な歌唱力のもたらした勝利だつたと云つていゝ。私は、殆どねぢ伏せられ寄り切られ、しまひには薙ぎ倒された。この2人は、オペラ歌手としては、本當に何十年振りの剛速球投手、次から次へど眞ん中に投込んで三振の山を築く“舊タイプ”の大歌手と云ふ印象で、仔細もなく、私はたゞ氣持良かつたのである。

 正直な處、評判が良いといふたゞ一事で、私は、この2人のコンビには全く期待せず、寧ろ反感を持つてゐた、それだけに、評判相應以上に素晴しい歌手を發見出來た喜びは、大きなものであつた。

 私は、ツー ジャーナリスティックな今日といふ時代の評判といふものに對して、極めて懷疑的である。評判がいゝものにろくなものはないと思つてゐる。臍曲りなのではあるまい、子供の頃から素直だつた記憶しかないのである。問題は私の臍にはないに違ひない、疑ひもなく、時代の側にある。今日の日本では、何事につけ、人々が、物を評價する基準が、愚かで弱蟲で夜郎自大で、要するに下心は全て商賣本位といふ邪惡さが、人々のあらゆる意味での劣情に媚を賣るといふ形で決まる、さうして捏造される“評判”なるものが、世の中の空氣をひたすら不快で酸鼻なものにし續けてゐる。私は、たゞ、必要以上に傷付きたくないだけなのだ。

 この2人に關しても、評判を聞けば聞く程、内心、鼻白む思ひがしてゐた。その評判たるや、オペラ歌手には珍しい美貌のコンビで、その上聲もいゝといふ話だつたからだ。クラシカ・ジャパンの情報番組でも、山崎浩太郎氏によるさういふ前口上が付いてゐた。何といふ本末顛倒、何といふ日本のジャーナリズムへのお追從だらう。オペラ歌手の美貌が何だといふのか。しかも滑稽なのは、二人とも、歴代オペラ界のスーパースター達の中で、特に美貌でも何でもない事だ。

 ヴィラゾンのあの眉毛、あれは一體何事か。今囘の舞臺を見る限り、彼は、美貌でない上に、自分は美男であるといふ勘違ひもしてゐなければ、外見でお客を取らうなどと、男妾のやうな卑しい下心などまるで持つてはゐない。今囘、オペラ上演と、制作過程のドキュメント番組とを通じて感じたヴィラゾンは、美男子ではなく、快男兒である。歴代のスーパースターを思ひ浮べてみてほしい。ドミンゴ、ステファノ、モナコ、シエピはどうだ。イェルザレム、コロ、ズートハウス、メルヒオールはどうだ。ハリウッド風や、ジャニーズ風ののつぺりした輕薄なハンサムとは違ふが、存在感のある、男臭い色男が、オペラ界のお歴々には揃つてゐたではないか。ヴィラゾンの魅力は、無論、力一杯感情をぶつけきつた歌唱が、驚く程纖細な音樂的叡智に支へられてゐる點にあるので、容姿にあるのでは全くない。

 ネトレプコに就て、同じやうに、シュヴァルツコプフ、ギューデン、ヴェリッチュ、グリュンマー、デラ・カーザらの容姿を較べるのは、失禮の上塗りになるから、止めておきたい。古い名前ばかりで恐縮だが、偉大な女性歌手が、皆、フラグスタートやニルソンのやうな譯ではなかつた事は、大のオペラ通の山崎氏は、よく御存じの筈である。ネトレプコに至つて、珍しく容姿と歌唱力を兼備した歌手が出現したなどと寢言を云つては欲しくない。しかも、氣品も美も、ネトレプコは寧ろ、以上擧げた歌手らには、どう見ても劣る。素朴にかはいい健康美の持主だが、天性の美貌と云ふのではなく、役柄にのめり込む女優としての竝々ならぬ努力と、聲の、暗闇で微光を發するやうな深い性格とが、彼女の魅力の中心をなしてゐる。

 かうした2人を、容姿先行の話題作りに乘せる日本のクラシックジャーナリズムは、輕薄で卑しい。彼らの、地道な藝術家としての精進の眞劍さからも、その歌唱がどのくらゐ卓越し、歌唱としてユニークであるかといふ事からも、日本の聽衆の目を遠ざけるだけだからだ。ティーレマンやバレンボイムに對する、日本の音樂評論の、玉蟲色の出方と、同工異曲といふ處だらう。日本のクラシックジャーナリズムは、吉田秀和、遠山一行兩氏の鋭敏な批評精神を主軸に進んだ昭和50年代迄を境にして、味噌糞混同で、價値に對する鮮明な斷言と、その證明への努力とを、完全に失つてしまつてゐる。文體を失ひ、誇りを失ひ、文化を横斷する教養を失つて、尚且つ盛大な下品を加へた。

 フルトヴェングラーが偉大なやうにティーレマンは既に偉大な巨匠である。日本の批評家は、それをはつきりと云へない。ティーレマンの不足點に關して、難癖を付けてゐる。だが、フルトヴェングラーもトスカニーニも、猿程度の聽力さへあれば、難癖くらゐ幾らでも付けられるのだ。カラスとモナコが大歌手だつたやうに、ネトレプコとヴィラゾンは、既に大歌手である。歌唱だけではなく容姿端麗で、カップルとしてもお似合ひだから人氣が出た云々などといふ餘計な注釋で、彼らの偉大さから、日本の聽衆の注意力を逸らさないでもらひたい。偉大な演奏家の直接の息吹に觸れる大感激に水を差すのが、譯知りだとでも思つてゐるのだらうか。感激の涙、怒りによる頬の高潮から出發しないやうなあらゆる批評は寢言であり、文化的成熟の敵である。そして又、一方で、そのやうな激情を、ロゴスに飜譯する能力を缺いた批評は、そもそも批評ではない。

 さうした批評不在の日本といふ音樂消費大國で、どのやうな事態が進行してゐるかといふと、それは例へば、次のやうな事態である。

 私は、ネトレプコは生で聽いてゐる。2006年、メトロポリタン歌劇場の來日公演で、《ドン・ジョヴァンニ》のドンナ・アンナを歌つた時の事である。その時、私は、彼女の容姿にではなく、今日では珍しい程暗い陰影を湛へた聲と、歌唱の眞實味に、強く胸打たれた。他の歌手を壓した實力の持主だつた事を、一聽感じた。それだけに、私は、聽衆の冷淡な反應には、本當に驚いたものである。アリアの後にろくすつぽ拍手も出なければ、終演後、彼女を迎へた拍手は、通り一遍のものに過ぎなかつたからである。この數千人のオペラファン達は、何を聽いてゐたのか、顏の兩脇に耳たぶを付けてさへゐれば、音樂が聽こえる譯ではない。王樣の耳だけが驢馬の耳なのではない。成金だらうが、金滿家の婆さんだらうが、CDマニアだらうが、音樂評論家だらうが、驢馬竝の耳は幾らでもある。

 後に、雜誌か何かで、吉田秀和氏と國土潤一氏のお2人が、ネトレプコを絶讚してをられ、やゝほつとした。驢馬の中に立ちまじつて、人間竝の耳の所有者がゐたと思つたからだ。そして、その1ヵ月後のザルツブルク音樂祭で、例の、猛烈なネトレプコ現象。

 さあ、日本の音樂ジャーナリズムの出番だよ。今や、“あちらで”大評判になつた折紙付きのスーパースターだ、次の來日では、たつぷり前評判を煽り、聽衆も、善し惡しなんぞ關係なしに、狂氣のブラヴァーを叫び續け、「さすがネトレプコは全然違ふ!」と、感心してみせたらいゝ譯だ。元金保證付きのお買ひ得スターの誕生だ。

 ……いつになくねちねちとした嫌味を書いて申し譯ない。だが、どの分野でも、現代の日本人は、脣を歪めて小生意氣な批評を竝べるのは得意な癖に、自分の判斷を、本當には信じられず、他人の顏色ばかりを伺つて物を云ふ。日本人よ、どうして、こんな薄みつともない民族に成り下がつたか? ネトレプコが、歌手として壓倒的な表出力を持つてゐた事は、ザルツブルクでネトレプコ現象が始まる前、東京のメトロポリタン引越公演で明らかだつた。私はさう感じ、當時長篇の評論にその事を書いたし、吉田氏や國土氏も、それをはつきり書いてゐる。聽衆の中にも、自分の耳で、それを感じてをられる人はゐたに違ひない。だが、ネトレプコ現象は、何故か、東京では起らない。東京が、新しい偉大な個性を發見する事は決してない。東京といふ音樂市場では、前もつてヨーロッパで評判になつてゐなければ、或いはタワーレコードがプロモーションを掛けてゐなければ、或いは『レコード藝術』で特選になつてゐなければ、或いは宇野功芳氏が襃めてゐなければ、或いはベルリンフィルかウィーンフィルでなければ、自分達の耳の力だけで、新しい感動を發見出來るだけの聽衆といふ層が存在しない。評判に對して拍手するだけなら、こんな連中は、聽衆などではなく、葱を背負つた鴨でしかないぢやないか。

 私は近所で買つてくる豆腐や納豆だつて、一番、いゝ味のものを選ぶ。審査は嚴しいのである。舌のいかれた、フランスの田舍者が付けた星の數などで、入る料理屋を選ぶやうな、男の恥ぢを晒したことはかつて一度もない。ミシュランより、私の舌の方を信用できないやうな女など、女とは看做さない。俺と付合ひたければ、舌を鍛へ直して、出直して來い。以上。

 私も不惑を過ぎて、こんな稚気丸出しな文章なぞ書きたくはないのだ。最近、小林秀雄の若書きの批評を讀み直してゐて、つひ往年の小林青年の稚気がうつつてしまつたのかもしれないが、要するに、云ひたいことはたゞ一つだ。成熟した判斷を、靜かで深い文體で語る批評を全く所有できなくなつてしまつた消費都市東京で、迎合的な情報通ばかりが跋扈してゐる内に、日本の聽衆らは、音樂の強烈な感動といふものに、照れてしまつてゐるのではないか、誰が間違つてゐると云はうが、君が大感激した、その動かされたといふ事實の重さを信じ給へ、そこからしか、まともなクラシック音樂の受容も發信も育ちはしない、私はそれが云ひたいだけである。

 かつて、フルトヴェングラーのレコードやチェリビダッケの生演奏に、心身の底の底から搖すぶられた私は、この數年、現役の演奏家に、それら大巨匠を時に凌駕する程の激甚な感動を與へられてきた。ティーレマンのブルックナーの《第5》の生演奏を筆頭に、バレンボイムの《トリスタン》、ムターの《四季》、そこまでゆかなくとも、ケント・ナガノ、大植英治、アントニオ・パッパーノ、クリストフ・エッシェンバッハらの指揮は、かつての巨匠時代に、遜色ない美質を生み出し始めてゐる。ところが、かつての巨匠を偏愛する人に限つて、生きてゐる人間を眞つ直ぐな耳で聽かうとしない。ティーレマンのブルックナーも、ヴァント、朝比奈に較べればまだまだだなどと云つてゐる。何云つてやがる、まだまだなのは、お前さんの耳糞一杯の鑑賞力の方ぢやねえか。

 私は、こゝに擧げた名前を、一切の評判とはかゝはりなく、自分の耳で選んできた。自分の精神の力で、私は彼らから感動を受け取つた。かうした言ひ方が鼻につくといふのは、分つてゐる。私は、「私は何故こんなに賢いのか」などと云ひたいのでは、全くない。私はニーチェ程の天才でもなければ、ニーチェのやうにいかれてもゐない(と思つてゐる)。私は、それが、誰でも、實行できる、當り前の平凡な振舞なのだ、と云ひたいだけだ。多くの音樂愛好家諸君に、その當り前のこと、自ら判斷を下すといふ事の、危險と喜びとを知つて欲しいといふだけの事である。

 音樂を愛することは、音樂を批評することは、居酒屋でよく見掛けるやうな、仲間内で傷を舐め合ひ、同席しない人間の陰口をきくといふ種類の生き方とは正反對のものだ。感激を大切にしつゝ、異質な意見に粘り強く耳傾けながら、自分の考へを育ててゆく。知は、さうした道徳的に眞面目な態度の中でしか、育たない。さうした尋常な人間的な經驗に對する斜に構へた女々しさが、どんな難解な概念を振囘しても、どんな情報を振囘しても、どんな理窟を竝べても、新しい價値を作り出す事はできない。音樂の聽衆は、新しい價値を作る文化主體である。聽衆の發言が、知的で強いものにならなければ、經濟力の凋落と共に、クラシック音樂の演奏會自體が、東京から姿を消してしまふ事になるだらう。文化は金では買へない。文化の購買力とは、批評の力である。經濟力が衰へ切る前に、日本の聽衆にその事の意味を分つておいて欲しくて、力みかへつた文章を書いてゐるのである。いつもの如く《マノン》そのものの批評に、入れずに恐縮。それは、明日から、多分、2日もあれば終はるだらうと思ふ。(續く)

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