マスネ作曲《マノン》5幕 バレンボイム/ネトレプコ/ヴィラゾン他/ベルリン國立歌劇場(2007.5.3~9)(5)小川榮太郎(2008年09月08日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年09月08日より)

 今囘の上演は、以上のやうに、2人の歌手の壓勝と云へるが、實際には、緻密なチームプレーが、2人を引立たせたがゆゑに勝利でもある。その意味で、先に觸れたパターソンによる演技指導は、これだけ質の高い成功には、疑ひもなく不可缺だつた。カーテンコール時、パターソンが舞臺に登場すると、後ろから、誰よりも熱烈な拍手でこれを迎へてゐたネトレプコの、感謝に滿ちた表情は印象的だつた。そして、もう一人、指揮者のバレンボイムに、をはりに登場してもらはなくてはならない。バレンボイムの指揮は、完全に黒子に徹してゐたと、最初に書いたが、しかし、何と非凡な黒子だらう、2度目に視聽した時に、その綿密で豐富な音樂的緊張を一層細部まで味はつて、その非凡さには、明らかに根據がある事を痛感した。この上演の成功の過半が、二人の歌手とパターソンによる演技指導にあつたにせよ、殘りは、やはりバレンボイムの指揮に歸するべきだらう。

 マスネの原曲には、餘りに明瞭な限界があつて、オーケストラパートが表せる音樂的な豐かさは限られてゐる。凡庸とは云へないまでも、激しいときめきを覺えさせられるやうな音樂書法の充實や斬新は皆無だし、メロディーにも靈感が乏しい。1883年、ヴァグナー歿年に發表されたオペラだが、その洒落た味はひに、2時間半を充實した音樂的感動で埋めるまでの力は、感じられない。ヴァグナーから學んだ形跡もないではない。だが、例へば、ライト・モテティーフの技法を取入れてゐるなどといふ言ひ方で、影響を云々するのは、大袈裟だらう。《カルメン》との近似を感じさせる場面もあつたが、一聽して忘れ難いあの衝撃力はまるでない。どこをとつても快活で綺麗だが、それ以上でも以下でもない音樂。

 それが、どんな瞬間にも、集中が途切れずに聽けたのは、音樂の劇的展開に就て、極めて緻密なバレンボイムの表現力によるだらう。例へば、レヴァインやムーティの指揮で、この作品を全曲通して聽くのは、私には、多分無理だつたらうと思ふ。微細な部分に對する生々しい表現力の積み重ねが、音樂の大きなアーチを、無數の表情を伴つて支へるといふ指揮者バレンボイムの美質が、二人の歌手の強烈な歌唱を、たゞの喚き合ひから救つてゐた。かつてのカルロス・クライバーやヘルベルト・フォン・カラヤンならば、このやうな作品を指揮しても、なほ、華麗さで主役を取つてしまつたかもしれないが、バレンボイムの音樂的實力は、少くともこゝでは、さうした、でしやばりなきらびやかさとは無縁だつた。黒子のまゝ、オペラ上演の質を超一流のものにしてゐる。

 クラシカの情報番組で、山崎浩太郎氏と對談を擔當されてゐる女性キャスターの方が、バレンボイムが、ヴァグナーなどの時の重たい指揮振りとは別人のやうに、フランス風の切れ味やエスプリを表現してゐるといふ風な會話を交はしてをられたが、先日書いたやうに、この意見には到底贊成できない。樣式的に、疑問を覺えるやうな違和感こそなかつたが、しかし、一貫してゐるのは、やはりいつもの通り、バレンボイムらしい粘着的な緊張感ある展開と、重厚な響きで、この指揮者が、エスプリなどに顧慮してゐるとは到底思へなかつた。エスプリといふ言葉が、フランス語に由來するだけで、その實、日本人の間で曖昧に濫用されてゐる言葉だといふ事はさしおいて、あへてこの言葉に乘じて云へば、音樂に於けるエスプリの大切な要素は、知的渙發としての氣紛れと、或る種の綺羅びやかさだらうと思ふ。バレンボイムは、どちらももつてゐないし、持ちたいとも考へてゐないのである。

 彼の指揮で聽く《マノン》は、マスネの狙つたエスプリを、プレヴォの原作に出來るだけ還元してしまはうとして緻密に積上げられてゆく、氣紛れさのない悲劇である。マノンの氣紛れが、次々に豫想外の展開を見せながら、綿密なロゴス拔きに、呆氣ない死の場面を迎へるといふマスネの《マノン》の側から見れば、バレンボイムの指揮は、明らかにドイツ音樂的な論理による、作品の構想の讀換へである。音樂的論理を息を拔かずに詰めてゆき、拔き差しならぬクライマックスを迎へるといふ行き方だつた。

 サウンドも、フランス風とは言ひ難い。勿論、ヴァグナー・サウンドではなかつたが、クナッパーツブッシュや朝比奈隆ではあるまいし、トーンを作曲家によつて變へてゐるのは、當然の事だらう。だが、マッシヴで重たいリズムと、やゝくぐもつた暖色系のバレンボイム・トーンは、こゝでも隱しやうがない。それから、彼のリズム。附點リズムに誘導されてカルメン冒頭の雜沓の音樂風のお洒落な描寫音樂が出る。ところが、この附點の音型が、バレンボイムで聽いてゐると、ベートーヴェンの《第7》の1樂章を聯想させてしまふのである。お里が知れて面白い。

 山崎氏は、バレンボイムを「いゝ意味で器用」と云つてゐたが、批評として間違つてゐると思はれる上、既に、歴史上最高の巨匠の一人となつてゐる人に呈する評としては、失禮でもあるだらう。日頃、バレンボイムに冷笑的な山崎氏が、テレビ解説で、途端に宗旨易へをして、バレンボイムを奇妙な仕方でにはか襃めする遣り口が、「いゝ意味の器用さ」か、惡い意味のそれかは、今詳らかにしない。分る人に傳はるやうにぼかした皮肉だつたのだと云ふのかもしれない。だが、私はさういふ弱々しい韜晦は好かない。飜譯家として優れた仕事を重ねてをられ、また、演奏史の第一人者である山崎氏が、テレビメディアに迎合して、曖昧で安つぽいお喋りをされてゐるのを見るのは、いさゝか殘念である。批評家は、頑固さで商賣をせねばならない。山崎氏の演奏史に對する知識と情熱は、筋金入りの本物だと思つてゐる。讀者は批評家の阿諛追從は機敏に察知するものだ。氏に八方美人的な微笑は、似合ふまい。(この項了)