シューマン交響曲第2番 クリスティアン・ティーレマン指揮(1)小川榮太郎(2008年09月14日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年09月14日より)

シューマン交響曲第2番 クリスティアン・ティーレマン指揮フィルハーモニア管弦樂團(1996.7於ロンドン)

 ドイツグラムフォンから出てゐるこのレコードを初めて聽き、深い慰謝と、鮮烈な感動で、口が聞けない程だ。

 私は、今でこそ、ティーレマンをフルトヴェングラー以來の大指揮者と確信してゐるが、この指揮者との最初の出會ひはよくなかつた。10年程前、つまりこのレコードの收録された頃だと思ふが、ティーレマンが、ベルリン・ドイツ・オペラと來日した時のコンサートに出掛けたが、全く感心しなかつた。はつきり覺えてゐるのは、R・シュトラウスの皇紀2600年式典序曲が演奏された事だけだ。今にしても思へば、尊敬する人物はフリードリヒ大王だといふ國粹主義的なティーレマン―現代日本で、龍馬や海舟ではなく、明治天皇や東郷平八郎を尊敬してゐると言ふやうなものだ。―が、かつての同盟國日本へだづさへてきた、はつきりとした政治的メッセージだつたと言へやうが、その時は、たゞ退屈な曲だと思つただけだつた。何と鈍感だつただらうと思ふ。しかし、我ながらやゝ滑稽なのは、メインプログラムが何の曲だつたか思ひ出せない事である。ブラームスの《第1》だつたやうな氣がするが、或いは《英雄の生涯》だつたらうか。覺えてゐない程、詰まらなかつたのである。久々のドイツの大器といふ評判だが、要するにフルトヴェングラー風のエピゴーネンで、それも、素朴單純で、雜駁に過ぎる、いよいよチェリビダッケの死去と共に、クラシックは人材拂底かと、溜息が出たものである。

 私が紛ふ方なき大指揮者としてのティーレマンに、改めて再會したのは、レコードで、ミュンヘンフィルハーモニー就任公演のブルックナーの《第5》を聽いた時である。正直に言つて、來日公演の印象が惡かつたから、期待はしてゐなかつた。その頃、クラシック音樂の情報からもひどく離れてゐて、ヨーロッパでのこの人の評判に就ても、全く關心がなかつた。

 だが、これは、又、何といふレコードだつたらう。一樂章の序奏部、最初のクレッシェンドで、私は、誰彼構はず、この凄さを知らせたいといふ強烈な興奮に衝き動かされ、心の中で、絶叫を擧げてゐた。これだ! これこそは、フルトヴェングラーだけに可能だつた、あの居ても立つてもゐられない程聽き手の心を惱亂させ痺れさせるクレッシェンドだ。たゞ音量が増してゆくのではない、音量ではなく、音壓や和聲が凝集し、音色のパレットが輝きながら融け零れての、痛烈な陶醉だ。さうした、音樂の密度の緊密な高まりに、殆ど耐へ難い緊張が生じ……その果てに、壯大な解決としてのフォルティッシモが響きわたる。あの、フルトヴェングラートーン、フルトヴェングラークレッシェンドを、そのまゝ彷彿とさせるやうな信じ難い昂揚が、こゝで易々と實現されてゐるではないか。

 何といふ事だ! こゝに、たうとう、半世紀ぶりに、あの指揮臺上の神祕現象を物にした男が出現したのだ!

 とにかく、このレコードは聽き込めば聽き込む程、更に、調べてゆけば調べてゆく程、ティーレマンの樂曲の把握が深く、構造的でもあり、和聲的でもあり、ブルックナー樣式への内心からの共感も群を拔いて深い事には、驚嘆せざるを得なかつた。オーケストラへの指揮の把握力も細部まで尋常ではない。無限な多樣性への深い配慮と、音樂の光と闇の振り幅も大きい。奇跡を仰ぎ見るやうであつた。ブルックナーで私が最も大切にしてきたのは、チェリビダッケの記憶だが、この《第5》に關しては、チェリビダッケのレコードの出來が惡く、そんな筈はないと思つて聽き直す度に失望してゐたので、ティーレマン盤の素晴しさは、尚更、光つて感じられたのである。

 その後聽いた、昨年十一月のティーレマン=ミュンヘンフィルの來日公演での感動は、何度も書いたので、こゝでは繰返さない。作品像の再考を迫る刺激的なブラームスの《第1》も素晴しかつたが、ブルックナーの《第5》こそは、レコードの印象を更に一囘り大きくしたやうな、眞に偉大な音樂體驗で、生涯の燭となる程のものだつた。

 ティーレマンのレコードを眞面目に聽き出しのは、それからの事になる。《トリスタン》と《アルプス交響曲》に就ては、このブログで、既に書いた。いづれも、同曲を代表する名盤と言つていゝものだ。かうして、私の中では、ティーレマンは、21世紀に入つて、急速に成長し、一氣に巨匠に上り詰めた人といふ思ひ込みが、すつかり腰を据ゑてしまつてゐた。90年代のこの人のレコードは、改めて聽く値打は餘りないかもしれないと漠然と決めつけてゐたのである。その意味では、このレコードは、その思ひ込みを、根柢から覆すやうな、衝撃の名盤である。

 それにしても、これ程の、名盤を、レコード藝術別册などのあれこれの名盤選びが、ろくに評價してゐないとは! 先の《アルペン》もさうだが、これくらゐ凄い演奏になると、評價に、主觀の入る領分は、かなり小さなものになる。《アルペン》の時は、カラヤンの有名な演奏と、綜合的な印象で、優劣付け難いが、心情的には、ティーレマンを選ぶとした記憶があるが、シューマンでは、記憶の限り、この演奏以上に感銘を受けたケースを思ひ出せない。マーラーに引きつけて極度に擴大した解釋とされるバーンスタインの演奏さへ、このティーレマンの後に聽くと、整理され過ぎてゐて、しかも、一囘り小さく聽こえてしまふ。吉田秀和氏が絶讚して、一擧に日本での評價の決まつてしまつたシノーポリの演奏は、發賣當初から、私には全く魅力がない。自白すれば、賣り拂つてゐて手許にないが、改めて、買ひ直して批評する意味はあるだらうか? シノーポリのシューマン《第2》は、實演でも聽いたが、このレコードの印象を越えるものではなかつた。寧ろ、同じ頃、ジョージ・セルのライヴ盤といふのをどこかから見附けてきて、暫くそれを愛聽してゐた。私は、クールな客觀主義者ジョージ・セルといふ評價には反對で、その演奏の熱量と抒情の深さと、音樂的意味への洞察には、今でも敬意を持つてゐる。だが、改めてティーレマンのレコードと較べる情熱は沸かない。クレンペラー、カラヤン、バレンボイムの全集盤も、《第2》には、劃期的な讀みの深さや新しさはなかつたと記憶する。

 何囘かに分けて、ティーレマンのシューマンの魅力を考へながら、幾つかのレコードをも經巡つて、あれこれ考へてみたいと思ふ。(この項續く)