モーツァルト作曲《ドン・ジョヴァンニ》 指揮:グスターボ・ドゥダメル 演出:ペーター・ムスバッハ 演奏:ミラノ・スカラ座管絃樂團及び合唱團 2006年10月ミラノ・スカラ座のライヴ録畫(クラシカジャパン放映)(2008年09月20日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年09月20日より)

出演 ドン・ジョヴァンニ:カルロス・アルバレス レポレッロ:イルデブランド・ダルカンジェロ ドンナ・アンナ:カルメラ・レミージョ ドンナ・エルヴィーラ:モニカ・バッチェリ ドン・オッターヴィオ:フランチェスコ・メーリ他

 指揮者ドゥダメルに興味があつて、視聽した。昨年、グラムフォンから出たベートーヴェンの《第5》《第7》のレコードは、全く感心しなかつた。それはいゝ、何しろ、まだ20代前半での收録である。感心しなかつたのは、それが、クラウディオ・アバド、サイモン・ラトル、ダニエル・バレンボイムら現代を代表する指揮者らの強い推擧による、グラムフォンレコードからの、よりによつてベートーヴェンの《第5》《第7》によるデビューだつたことで、その折、私は、「作られるスターの不安」と題して、この動きを批判した。ドゥダメルが、本當に才能があるのなら、それを聽き分けるべきは、聽衆であつて、同業の先輩達ではない筈だ。いや、無論、先輩の推輓は、いつの世でもあるが、それが、最もメジャーなレーベルから、最もメジャーなレパートリーでのデビューとなると、話は不健全なものになる。今、自民黨總裁選の眞つただ中、早くも麻生内閣の組閣人事が讀賣新聞に連日報じられてゐるが、かうして下馬評に出る名前は、現實の人事では、大抵潰れてしまふといふ。私の目には、ドゥダメルのレコードデビューが、この下馬評の大がかりな遣り口に見えた。自分の力で伸し上がる前に、先輩たちの提燈に足許を照らされて表舞臺に立つといふ行き方は、若い才能の、本當に自由で逞しい成長を妨げるのではないか、事實、ベートーヴェンのレコードは、指揮者として類稀な才能を感じさせるものではなかつたのである。

 前置が長くなつたが、結論から云へば、今日聽いた《ドン・ジョヴァンニ》でのドゥダメルは、案に相違して、實に素晴しい。天性の音樂的求心力が大變高い事は疑へないと思つた。スカラ座のオケに、完全に、この人の音樂性と考へる他のない勢ひ豐かな精妙さが漲り、歌手達の歌唱にも、この人の見えざる手が、しつかりと及んでゐることが感じられたからだ。

 これが、25歳にもならぬ人の指揮ならば、その人は、確かに天才と呼ばれるべきだらう。デビュー盤での前言は氣持よく撤囘し、この人の今後を、樂しみにしたい。

 では、どこが、素晴しいのか。序曲から、まづ、音の素晴しさに驚く。明晰だが、割切れ過ぎた音ではなく、瑞々しいが齒ごたへのある音だ。リズムは、若木のやうなしなやかだ。私は、すつかり氣持よくなつてしまつた。古樂器ブーム以後、バロック的に割切れた演奏が増えてゐるが、この人は、さうした鮮明な音像を基調としながらも、樣々な色彩をオーケストラから引出す。その意味では、努力型のハーディングの、丹念でやゝペダンティックな音樂作りに較べると、遙かに、才氣煥發、指先から魔法のやうに和聲と不可分に融け合ふ音色の豐かさが紡ぎ出される。驚くべきは、ドゥダメルの指揮が、歌手にも、大變強い波及力を持つてゐた事だ。密度の濃い、表情の強い、そして、隅々まで歌ひ流しのない、充分粘つた歌は、明らかに、彼の指揮によるものだと感じる。スカラ座での《ドン・ジョヴァンニ》としては、先日、惡口を書いたリッカルド・ムーティの映像があるが、兩者の音樂的な柔軟性と多樣な表現の精妙は、比較にならぬ程、ドゥダメルの方が上だらう。ハーディングの有名な《ドン・ジョヴァンニ》は聽いてゐないので、今度、早速映像を取り寄せて聽いてみたいが、少くとも、私が聽いてきた、幾つかの主立つた《ドン・ジョヴァンニ》の重要な演奏と比較しても、音樂的な感興は、大變高い演奏の1つとして指を屈する事が出來るものだ。

 一氣呵成な進行の中に、歌がある。音樂の前進力は、輕快だが、粘着的な陰影がある。和聲進行や和聲的な色彩表現への鋭敏な對應は、バレンボイムを思はせるし、進行の鮮烈としなやかな抒情の高度の結合は、カルロス・クライバーを聯想させる。これは、過襃かもしれない。だが、今日の上演を聽く限り、少くとも、この人の指揮には、聽き手を醉はせる何かが、確かにあるやうだ。

 序曲から、何とも躍動感がある上、それが單調な突進にも、驅足の平板にもならず、心浮立たせる。だが、特に、指揮に感心し始めたのは、ドンナ・アンナとドン・オッターヴィオが復讐を誓ふ場面からだ。劇的だが、自然な音樂作り、後半のアップ・テンポの中に、充分深いニュアンスがあるのは、先に觸れたムーティを始め、レヴァイン、アーノンクール等、現役の“大物”達の藝格を既に超えてゐる。ドンナ・アンナがドン・ジョヴァンニの正體を看破る「私、死にさう」では、レチタティーヴォからアリアへの伴奏の雄辯が、目覺しい。歌唱に寄り添ひながらも、寧ろ、竸演するやうに濃密に歌つてゆく。それは、ツェルリーナのアリアなどでも同樣だつた。
歌手では、ドンナ・エルヴィーラ役のモニカ・バッチェリが、特に印象に殘つた。引き締まつたやゝ暗い陰影、表出的な激しさ、容姿と聲の獨特の氣品に、私は、エルヴィーラとしては、シュヴァルツコプフ以來の強い印象を受けた。演技は、エルヴィーラをヒステリー女と描く、典型的に淺薄なものだが、それを補つて餘りある歌唱の充實である。ドンナ・アンナのカルメラ・レミージョも美聲で、しかも中身のある歌唱。男性陣では、ドン・オッターヴィオ役のメーリが、歌唱も役も大根が器用される事の多い役に、表情豐かな歌を持込んで秀逸だつた。

 ダルカンジェロのレポレッロは、私には、期待程ではなかつた。聲は強いが暗く、眞面目でやゝ一本調子である。ジョヴァンニとレポレッロに關しては、私の腦裏には、去年のベルリン國立歌劇場の來日公演の、マッテイとミューラー=ブラッハマンの壓倒的な演唱が燒付いて離れない。かつての、フルトヴェングラー盤での、フルトヴェングラー=チェーザレ・シエピ=オットー・エーデルマンのデモーニッシュ・トリオに對して、バレンボイム=マッテイ=ミューザー=ブラッハマンは、喜劇性をふんだんに含んだ悲劇としての《ドン・ジョヴァンニ》を實現してゐ、異なつた、だが、對等な藝術的價値を主張できるものと思つたものだ。

 今の、ドゥダメルを、フルトヴェングラーやバレンボイムに較べても仕方がない。彼らの演奏は、オペラの單なる上演を超えて、根柢的な人間劇としての、解剖的性格を持つてゐた。だが、今日の上演は、何よりも、音樂の喜びが横溢してゐた! 一言で云へば、私は、今日の演奏で、すつかり、ドゥダメルといふ青年が、好きになつてしまつたのである。

 この上演時に雜誌で讀んだ記憶では、聽衆の好意的な評價とは裏腹に、批評は、ドゥダメルにかなり嚴しかつたとか。どのやうな點に辛い點がついたのか。今日の映像が、編輯濟みのものならば、どこかで基本的なミスがあつたのか。だが、今日聽いた印象が僞りでなかつたとしたら、この頃までスカラ座音樂監督だつたムーティよりも、ずつと指揮者としての筋がいゝ演奏だつたと、私は思ふけれど。(この項續く)