モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》 指揮:グスターボ・ドゥダメル 演出:ペーター・ムスバッハ 演奏:ミラノ・スカラ座管絃樂團 2006年10月ミラノ・スカラ座ライヴ(クラシカジャパン放映)(2)(2008年09月22日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年09月22日より)

 (承前)かうして、音樂的な充實で際立つ今囘の《ドン・ジョヴァンニ》に、問題があつたとすれば、それは、何よりも、ムスバッハの演出である。舞臺空間は、殺風景なムスバッハ流で、これは、もうこの人の美意識の根柢にある景色なのだらうから、仕方がないとしよう。それから、エルヴィーラがスクーターに乘つて登場するといふ小手先細工も、彼女の登場が、普通の演出では、奇妙に重たくるしくて、野暮になりがちな爲に考へ出された苦肉の策といふ事で、事々しく批判はすまい。特に意味もない代はり、邪魔になるといふ程でもない。

 それにしても、このエルヴィーラといふ人物は、大變、興味深い女性像である。彼女に與へられたアリアは、音程の大仰な跳躍をふんだんに驅使して誇張された、ヘンデル風のアナクロニスムを表してゐる。また、與へられた調性も、滑稽な役にモーツァルトが選ぶものである、といふ指摘がある。今日では、それに加へ、エルヴィーラを社會學的な觀點から考へる視點も強くなつてゐるだらう。が、そうした觀點から、まるで直線的に演繹出來るかのやうに、モーツァルトが、この女性を、馬鹿馬鹿しい女として描かうとしてゐたといふやうな、音樂學者の唱へる説には、承服できない。あへて言ふが、物知りの人間知らずの典型的な俗説であらう。

 音樂から來る、また、筋書から來るエルヴィーラといふ人間の息吹は、さう單純ではない。ドン・ジョヴァンニと衣裳を交換したレポレロが、後半、彼女と媾曳をする事になるが、かと言つて、エルヴィーラをレポレロと完全に對をなす喜劇的人物に見立てる譯にはゆかない。私は、この作の熟讀や緻密な研究をしてゐないので、今、大したことは言へない。が、彼女に與へられたアリアは、惡乘りするといふニュアンスを持つたやうな意味での、ヘンデルのパロディではあるまい。音樂が傳へてゐる印象は、彼女とジョヴァンニの諍ひの場面に行き逢はせた、ドン・オッターヴィオとドンナ・アンナが語る「氣高さ」を、傳へてゐる。彼女の最初のアリアも、また、後半、バルコニーで彼女が惱む場面も、喜劇的であるのと同じくらゐ、眞實な女性らしさの表現であり、あへて言へば、モーツァルトが女性に賭けた夢なので、そこで表されてゐるのは、裏切られ續ける崇高とでも呼ぶべき何物かである。

 レポレロは、この女性の騙され易さに、ほとほと呆れ返るが、それは、彼が、ジョヴァンニを知つてゐるからだ。レポレロの知るジョヴァンニは、1度征服した女に全く興味を抱かない。だが、無論、1度愛を交はした女たちは、さうしたジョヴァンニの純粹に征服的な性慾を知らない。カタログの歌で歌はれたのはジョヴァンニの多情であつて、彼の性慾の性質ではない。エルヴィーラは、騙されてゐるといふよりも、積極的に騙されに出向いてゐる。愛と懷疑とは、手に手をとつてゐて、切り離せない。それは、愛を抱いてしまつた人間の弱みであり、誰しも、戀をしたならば、思ひ當る節はある筈だ。彼女は、たゞのうるさい醜女役ではない。モーツァルトは、さうしたどたばた喜劇を書いてはゐない。劇化された滑稽の内に、誰の心の内にもある純粹な感情が呼びさまされる、聽き手として、劇の目撃者として、エルヴィーラを體驗するとは、さういふ意味だ。演出が、さうした讀みへと作品を深めてゆくのは、稀で、今日のエルヴィーラ像も、要するに、スクーターに乘つたヒステリー女を出てゐない。

 全體に、性的なニュアンスが多いのは、最近の《ドン・ジョヴァンニ》では當り前だが、これは、思想、時代考證、演技のいづれの觀點からも、愼重に熟考しないと、全く無意味なものにをはる。例へば、今日のものも含め、最近の演出は、1幕冒頭でのドンナ・アンナとドン・ジョヴァンニ登場で、工夫もなく、2人の和姦を暗示する。騎士長が出る前、徐々に音樂が弱まつてゆく中での2人が、そのまゝ、性的な愛撫に身を任せるといふ遣り方が、殆どだ。だが、これは、その前の音樂の痛烈な詰問調からも、樣々な科白からも、辻褄が合はない。怒りに燃えてゐるアンナの眞つ直ぐな姿が、何と鬪つてゐるのか、それは本當に分らない事だ。本來ならば、うまくゆく話だらけの筈の、女性に對する常勝將軍が、惡魔にからかはれて、何一つうまくゆかない1日の始まりである。今時の女性ぢやあるまいし、アンナが、ジョヴァンニにすぐに身を任せてしまふやうな氣配は、オペラの幅を狹める。いゝ加減、無考へな2人の和姦演出の常習化は止めてもらひたい。

 今囘は、更に、「撲つてよ、マゼット」などで、露骨に性的な動作が目立つたが、これは、更に感心しない。この音樂は、明らかに、愛にかゝはつてゐるので、オペラの美しいアリアの中でも、とりわけ性にはかゝはつてゐないからである。

 現實の戀人の場合、愛と性とを區別出來ないのは當然で、瞳を見詰めながら、愛の言葉を囁き合ふことから、抱きしめ合ひ、お互ひのかをりと温もりに感じ、徐々に興奮し、思はず知らず口づけを交はし、つひには服を脱ぎ―脱がせ―、事に及ぶ迄の、どこまでが愛の領分で、どこからが性の領分かなどと、彼らに尋ねる馬鹿はゐまい。だが、藝術作品は、戀人の愛撫の一部始終の覗き部屋ではない。愛の領分の節度を守る事は、音樂のリアリティを、そんなに損ひ、退屈なものにするだらうか。性の領分を暗示する事は、逆にこの音樂の豐富な感情に、より切實な價値を加へるだらうか。

 今日の演出で、最も問題だつたのは、しかし、以上の、比較的穩健なセクシュアリティーの強調よりも、最後の、騎士長像の登場だらう。肥滿短躯に禿頭に眼鏡を掛けて、背廣を着た、現代の平凡な中年男性が、等身大のまゝ全身銀を塗つて登場する。父性の威嚴も、地獄への誘ひも全て否定されてゐる。現代のお父ちやんは、死んで銅像になつても、こんなに滑稽だとして、だから何だといふのか。死ぬ前にせめてダイエットにでも勵み、發毛劑を手放すなとでも言ひたいのか。

 父性を解體すべきイデオロギーと見る觀點自體が、私には、知識人の掛かつた性惡な病氣としか思へないが、人はどんな邪惡な、無意味な思想でも抱く事が出來るのだし、さうした考へを誰かが抱くのを、私が止めることは出來ない。だが、このオペラで、父性への獨特の強迫觀念を否定するのは、作品自體を無意味にするだけである。演出家は、作品を豐富にする義務を、作者にも觀客にも負うてゐる。それが作品批判だとしても、我々は音樂作品を聽きにゆくので、批判が、造形的な感銘に達してゐない限り、それは批判として成立し得ず、兒戲であり、茶々である。今日の演出のやうに、演劇的音樂的に無意味な考へは、評論にしてでも發表すればよく、舞臺の演出に持込むのは、藝術上の倫理としても、商業道徳としても、間違つてゐると、私は思ふ。

 いつも書く事だが、殘念ながら、今日、讀み換へ演出とされるものには、音樂と人間とを、充分に讀み切つた上での創意が殆どない。讀換演出の手が決まつてゐる事に、私は、いつも、不滿を覺える。時代や場所などのシチュエイションの變更、性的露出、異樣なコスチューム、舞臺仕掛け……作品の讀みに實質的に、新しい發見を促す地道な努力の積み重ねもせずに、一體、何をやつてゐるのかと訝しい。演出は、廣い意味で、批評であるが、ヨーロッパの批評は、殘念ながら、批評の本質的な生命である印象批評に、長くとゞまる忍耐を缺いてゐた。20世紀中葉、批評が、マルクス主義、精神分析、構造主義を積極的に取入れ續けることで、作品との對峙は、どんどん忘れ去られ、その都度新しい意匠による、作品の解體、作品を利用した批評理論の勝利ばかりが狙はれてきた。最近のオペラ演出を見てゐると、構造主義以後の難解な批評理論を讀まずとも、ヨーロッパの批評がどのやうに地に墜ちたか、凡その見當は付かうといふものだ。

 をはりに一言。ドゥダメルにも《ドン・ジョヴァンニ》にも音樂にも全く關係ない事だが、今、インターネットの配信するニュースを讀んでゐたら、エビちやんが、中國で、大變な人氣者ださうである。小蝦と書くのださうだ。食べたくなる程可愛いといふ意味かと思つたら、さうではなく、「エビちやん」の直譯に過ぎないやうである。つまり私が中國で萬が一、アイドルになると、愛稱は、小榮といふ事になるのか。かう書いても可愛らしさが感じられないのが不思議である、小蝦となると、文字から愛くるしさが匂つてくるのに。中國に就ては、日本人として考へなければならぬ事、國家防衞上の急務が山のやうにあるが、エビちやんに目を付けるとなると、尚更、中國人、端倪すべからざるものありと言はざるを得ない。

 それにしても、今日の記事にも出てゐたが、エビちゃんが、結婚したいと事あるごとに繰返してゐるのは、どういふ譯なのだらう。多數の男性から、邪惡な手練手管によるあらゆる誘惑があるであらうと想像されるが、公開の場所で、結婚願望を語り續けるといふ事は、彼女から見て、まだ、ふさはしいと思はれる男性が、出現してゐないといふ事か。それとも、さうした男性がゐるのに、今一つ晩生なので、背中を押す意味で、あゝして喋り散らしてゐるのであらうか。それから、彼女のファンといふのが、大方女性だといふのは、どういふ譯だらう。私は、《只野係長》以後、氣が遠くなる程の情熱で、この人を崇拜してゐるのだが。(この項了)