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マレク・ヤノフスキ指揮 ベルリン放送交響樂團 (2009年02月14日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年02月14日より)

ベートーヴェン作曲《エグモント》序曲、ヴァイオリン協奏曲(樫本大進)、交響曲第7番(2月13日於サントリーホール)

今日の公演は、期待外れであつた。期待外れといふからには、期待してゐたので、それは、廣告パンフレットでの城所孝吉氏の一文による。城所氏は、その判斷をかなり信用してゐる方なので、次の文章が私の氣を引いたのである。

 バレンボイムのベルリン・シュターツカペレ、ラトルのベルリン・フィル等、有名オケが派手な活動を繰り廣げるこの街で(中略)コンスタントな演奏の質、仕上りの細やかさということでは、あるいはトップに位置するかも知れない。

 さすがに額面通りに受取るつもりはなかつたが、しかし、今日聽いた限り、これは、過襃といふ言葉でも足りぬ程、實體とかけはなれてゐるのではないか。ラトルのベルリンフィルは、昨年の來日で、手嚴しい批評を受けたが、私は聽けなかつたので、直接比較は出來ない。その前の來日や、最近のレコードから、このコンビの演奏を高く評價は出來ないと思つてはゐる。だが、幾ら何でも、今日の演奏が、今のベルリンフィルと、同日に竝べていゝものとは思はれない。まして、バレンボイム指揮のベルリン・シュターツカペレに較べて、「仕上りの細やかさ」をいふのは、出鱈目が過ぎるだらう。

 《エグモント》は、早い序奏、低弦の強調と弦の高音の艷のある歌が印象的だつたが、それ以上に何かがあつた譯ではない。いつも書くが、バレンボイム指揮のベルリン・シュターツカペレが示す、壓倒的な和聲感や、音色や表情の無限の豐富さとは、始めから比較にも何もなりはしない。楷書の演奏だが、音樂が新鮮に響かないのである。中身が詰つたいゝ音ではなく、鳴りの餘りよくないこもつた音で、管の音色が、魅力に缺けるのも、その一因であらうか。

 ヴァイオリン協奏曲では、ごく平凡な1樂章の提示部に、想像してゐた範圍を超える失望感が強まり始める。樫本のヴァイオリンは、ヴィブラートを多用した明るく甘い音樂だが、最近のヴァイオリストの中では、テクニックが、音程にせよ、運指にせよ、かなり大雜把に、私には聽こえる。これは意外だつた。オケの音色のやゝしんねりむつつり氣味なのに較べて、開放的なよく響く音で丁寧に歌つてゆく演奏である。惡い演奏ではない。豐麗な音で、押さへるべきツボは押さへてゐる。たゞ、ベートーヴェンとしての齒ごたへは、私にはなかつた。

 この協奏曲は、ヴァイオリンといふ樂器に、ある意味で、樂器とは異質な、壯大な建築の夢が託された曲である。バッハの無伴奏が、如何にも佶屈に見えて、實はヴァイオリンの特質に深く寄り添つてゐるのに較べると、この曲は、豐かに歌はせてゐるやうに見えて、ヴァイオリンにはふさはしくない、無理な構造設計を樂器に強ひてゐる。甘く樂天的に伸び伸びと、ごく眞面目に歌ひ續ける樫本のヴァイオリオンは、さうしたベートーヴェンの無理強ひとの對決を感じさせない。だが、何らかのさうした樂曲の挑みへの批評がなければ、この曲は、美しくは鳴らないのだ。この曲の美しさは、即自的なものではない。ヴァオイリニストが樂器に醉つて生れる種類の喜びとは殆ど對極的に、彼の批評によつて搖さぶられた時に、曲は、思はぬ抒情と、廣やかな敍景を明してくれるのである。

 お客の熱心な喝采に應へて、樫本の選んだアンコールはバッハの無伴奏の2番から、サラバンドである。選曲を論つても仕方ないのは分つてゐるが、この曲ばかりが、最近の若手ヴァイオリニストのアンコールで、取上げられ過ぎるのは、氣にかゝる。この2年程でも、5囘は聽いてゐるだらう。どうした事なのかと訝しい。心を籠めて奇麗に彈くだけならば、名手には誰にも出來る事だが、これを單獨で彈いて、強い感銘を殘すとなると、大事業である。そんな感銘など期待できないに決まつてゐる若手スターたちが、こぞつてこの曲をアンコールで取上げるといふのは、眞面目なやうでゐて、實は安直な話ではないか。腕の力そのものを披瀝するやうな、單刀直入の名人藝で面白がらせてくれる方が、餘程、健康な氣がする。

 さて、メインの《第7》も、取り立てて言ふことはない。序奏の記憶は殆どない。名演であれば、既に、心が浮立つ處なのだが。主部に入る時の、弦とフルートの應酬の、フレージングの入念さは印象的だつた。フルートがレガートな表情で誘へば、弦は、マルカートで應酬する。かうした事が藝だと言へば言へるが、問題は、それが、持續する表情を作れない處にある。

 主部は、豬突猛進型の、威勢のいゝ音樂で、私には、「元氣」といふよりも、やゝ「がさつ」に聽こえた。これは、オーケストラ演奏といふ行爲の、一つの神祕だが、言葉やリハーサルで傳へられないやうな、どんな箇所にも、指揮者の才能に應じた、バランスといふものが生じてしまふ。例へば、今日で言へば、2樂章の最後、フォルティッシモで主題が再歸する箇所で、木管の音型を浮立たせる爲に、ヤノフスキは、管を指差し、その後、急いで、弦を抑へる動作をした。すると、弦は、指示によつて、突然、途中から、メゾフォルテになる。演奏の途中での、このやうな變更の指示は、無論、誰でもやる事だ。だが、今日聽いてゐて、この弦の抑制が、適切な度合を超えてゐ、音樂の大きさが全く消えてしまつたと、私には感じられた。その上、さうしたからと言つて、木管が、鮮やかに出てくる譯ではない。いはば、バランスといふものは、ごく微量の調節の數々の中から生れてくる。奏者の微妙な音程や音色、そして、指揮者の持つてゐるトーンなどの相乘效果から、得も云はれぬ味はひになるか、がさつさになるか、分かれ目は恐らく微妙なのである。

 例へば、今の箇所など、朝比奈隆であれば、もつと豪快に、おほらかに―毒舌家のチェリビダッケなら、眉を顰めてテリブル!と叫ぶかもしれない。「あれは「おほらか」なんてものぢやない、スキャンダルだ。」―彈かせるが、その不器用さの中に、何とも言へぬたゆたひがあり、何とも言へぬバランスとしての妙味があり、厚みがあり、一言で言へば、したたるやうに「音樂」があつたものだ。今日のヤノフスキは、要するに、優れた演奏には必ずあるやうな、言葉で説明の付かぬ微妙さがない。定規で引つ張つた線を繋いで、音樂をやつてゐるやうで、威勢はいゝし、不快な演奏ではないが、とにかくこくがなく、内燃するエネルギーや、眞の躍動がない。

 2樂章は、アレグレットの指示を重視し、速めのテンポで流麗に歌ふ演奏。3樂章では、トリオでのティンパニが豪快に鳴る。4樂章も、一氣呵成に、威勢のいゝ音樂で、聽衆は大喝采。元氣な演奏を聽いて、皆が喝采するのが惡いことである筈はないが、しかし、如何になんでも、城所さんのパンフレットの宣傳文、「お仕事」が過ぎるのではないかと思ひ、歸宅後、もう一度、丁寧に讀んでみて、私は笑つてしまつた。氏は、文章の終はりの方で、ヤノフスキは「20年後には一大巨匠として崇められる存在になっているだろう」と書いてゐる。ヤノフスキは當年とつて70歳だ。氣の長い話に附合はされた譯である。(この項了)

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