大植英次指揮ハノーファーフィルハーモニー管弦樂團 6月27日、28日 於サントリーホール(2)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年07月20日より)

 (承前)翌日のマーラー《第9》は、電車を乘り過ごして遲刻してしまひ、開演に間に合はなかつた。演奏會の遲參など、かつて記憶にない不祥事だ。昨日の演奏會の失望が大きかつた爲の氣拔けだらうが、それにしても、この所の私は、何かを投げてしまつてでもゐるのだらうか。以前なら、かうした不始末には苛立ち、不安にもなるのに、それすら起らない。苦笑してゐるだけだ。主宰してゐる讀書會で最近ずつと讀んでゐる漱石文學の不景氣さが乘り移りでもしたのだらうか。

 それにしても、第1樂章の終りを、ホールの案内係が氣付かず、2樂章に入つてしまつた爲、10分遲れたツケが、1、2樂章を兩方を聽きそびれる事に結果してしまつた。これは少し業腹。

 さういふ譯で、私が聽いたのは、3樂章と4樂章のみ、以下、嚴密な意味で到底批評とは言へない事は、御承知おきいたゞきたい。

 2階中央で聽き始めたオーケストラの音は、昨日よりはるかに明るく開放的である。單に編成が大きくなつてゐるといふだけではなく、現在の大植の資質が、このやうな大管弦樂に向いてゐる事を感じさせた。それにしても、この3樂章は、遲めといふよりも、驚く程遲いテンポと言ふべきだらう。晩年のバーンスタインでさへ、この樂章では推進力に賭けた表現だし、クレンペラーも、さうだつたやうに記憶する。まるでチェリビダッケのブルックナーのスケルツォのやうである。丁寧な阿鼻叫喚といふ處であらうか。

 たゞし、今日の大植のテンポは、現在の彼とオーケストラの表現能力の限界を超えてゐる。遲くする事で、それまで音樂から見えなかつたものが見えて來るといふのは、決して、容易な技ではない。緻密に細部が聞えてくるといふだけの事ならば、當り前なので、その細部が、新しいどんな風景を聽き手に開示するかは、テンポがもたらすのではなく、演奏家のヴィジョンの力による。

 例へば、昨日レコードで聽いたチェリビダッケのブルックナー《第9》のスケルツォ。あれは、もうヴァントの有名な―しかし全く聽くに値するとは思へない―レコードと較べると殆ど倍のテンポかといふ程遲いが、その遲さで、日頃知つてゐるこの曲とはまるで違ふ、もう一つのワルプルギスのやうな不氣味な闇の狂瀾を幻出してゐた。これは、テンポがもたらしたのではない。幻を見る指揮者の視力の、幻覺の、激しい鮮やかさがもたらした新しい風景である。大植の今日のスケルツォには、そのやうな意味での新たな意味の發見は、私には感じられなかつた。大植の最近の演奏は、常識外れに遲いテンポを取る事が多いやうに思はれるが、彼が本當の意味でヴィジョネールたる事を目指さない限り、この行き方では、早晩、行き詰りはしないかと、私は若干の危惧を抱く。

 4樂章は、遲めだが、最近では、バレンボイム以外の殆どの指揮者が、誰でも極限的に遲いテンポを取るので、珍しいことではない。美しく、内的な暗示に富んだ偉大な作品だが、この樂章の美しさを、本物の響きで滿たすのは、容易なことではない。感情の洪水にのたうち廻つてみせたのは、例のバーンスタインがベルリンフィルを指揮した實況盤だらう。私は、概してバーンスタインの耽溺的で、その實、どこか音の描く感情のラインが平板な演奏が餘り好きではないが、この曲では感動した。バーンスタインは、たゞ感情的に入れ揚げて、唸つてみせてゐるのではない。音にする事を斷念してゐるやうな、深い諦念があそこには流れてゐて、涙の濁流のやうに聞える演奏の底には、痛切な本物の悔恨が横たはつてゐた。

 一方、生演奏で聽いた中で最も痛烈な演奏は、エッシェンバッハ指揮フィラデルフィア管弦樂團のものだつた。寧ろ、嚴しく耽溺を禁じた演奏で、嚴正な漆黒の中に音が氷つくやうな演奏だつたが、ピアニッシモに入つてからのあの沈默! 沈默に、音そのもの以上に強烈な、壓力と重量とがある事を身體を以て知つたのは、この演奏だつた。

 大植の演奏は、前者のやうなエモーショナルなものではないが、又、後者のやうに何か倫理的な壓力でひたひた迫るやうな力はない。感情の眞正さを、音にしあぐねてをはつてゐたといふ氣がする。

 指揮者が、本物の表現を求めて試行錯誤し續けるのは惡い事ではない。大作曲家のスコアを深く讀み、それを充分自分の歌として歌ひきる事が、易しい事である筈がない。大植の仕事振りには、ルーティンが全くない。安易な聽衆の受けを狙つた媚態もない。その沒頭の仕方は、指揮の身振から想像されるやうな感情へ訴へ掛ける態のものと言ふよりは、音樂の構造的な意味を大切にする姿勢を基本とする。

 今囘のツアーに關しては、不幸にして贊辭を呈する譯にはゆかなかつたが、音樂家としての氏の姿勢には、共感してゐる。大成に時間が掛らうと、中身本位を、貫いてもらひたいものである。(この項了)