ダニエル・バレンボイム指揮/シカゴ交響樂團/バーンスタイン “シンフォニック・ダンス”他(2)(2009年10月10日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年10月10日より)

ガーシュイン“キューバ序曲” /バーンスタイン ウェストサイドストーリーより“シンフォニック・ダンス”(1997年)/ラヴェル“ダフニスとクロエ”第2組曲(1991年)/ヴァグナー“トリスタンとイゾルデ”前奏曲と愛の死(1993年)

 別の意味で興味深かつたのは、93年收録のトリスタンだつた。頑張つてはゐるが、現在のバレンボイムとは比較にならぬ凡演なのである。いや、凡演は正しい言ひ方ではない。遲いテンポで、フレーズに心を籠め拔いて、丹念に紡がれてはゐる。現存の大抵の指揮者に出來る藝當ではない。だが、一本一本の線に、微妙な陰影が缺ける。表情は目一杯付けてゐるのに、音樂が、最も深い綾に於て、何とも單調なのである。(私見では、60代までのカラヤン、そして、最後までヴァント、現在のアバド、ラトルらがさうであるやうに。)

 今のバレンボイムのヴァグナーは、和聲とダイナミズムと樂器の音色が、さゞ波のやうに絶えず干渉しあひ、微妙なオーロラのやうな光澤で呼吸してゐる。これは、どんなに巧みに設計しても、出來る藝當ではない。音樂の深い骨法を完全に把握して、瞬時にオーケストラに傳達する何かを、この人がこゝ10年程の間に、獲得してゐるといふ事に違ひない。今のバレンボイムは、ウェスト・ディヴァンのやうな準アマチュアオケからも、あの奇跡の光澤やうねりを易々と取出してゐるからだ。

 それに較べると、このレコードの93年時點でのバレンボイムは、フルトヴェングラー風の設計圖を懸命になぞつてはゐるが、設計圖には現れない音樂の内的な論理を、まだ、見出しあぐねてゐる。

 カルロス・クライバーが亡くなつた時、誰であつたか或る評論家が、バイロイトでバレンボイムのトリスタンの翌日だかに、クライバーの同じ曲を聽いて、最初から比較する氣も起らない、まるで別物だと感じたと書いてゐた。さうだつたに違ひない。この評論家氏は、カラヤン、チェリビダッケ、クライバー後、一部で帝王呼ばはりされてゐるバレンボイムに當てこすりを云つたのかも知れない。クライバーが、見事に體得してゐたのはフルトヴェングラー的な意味での和聲感ではないが、彼は天性の指揮者である。テンポとリズムとが分ち難く結び付き、呼吸のやうにうねりながら、聽衆の興奮を否應なく掻きたてる。全盛期のクライバーと圓熟期以前のバレンボイムでは比較になるまい。

 だが、近年のバレンボイムは、クライバーのやうな種類の興奮を越えた音樂的な熟成を、間違ひなく聽かせる本當の大指揮者になつた。多分、ベルリン國立歌劇場との作業の中で、彼は急激に成長してゐたのだらう。思ひ返せば、97年來日時のバレンボイム&ベルリン國立のベートーヴェンの第7を聽いて、この人が眞の大音樂家になつてゐた事に、驚いたのが、私のバレンボイム開眼の始まりだつた。それまで、バレンボイムに大きな期待を持つた事はなかつた。惡い演奏家ではなかつた。が、卓越した存在になるといふ豫感は、はつきり云つてまるでなかつたのである。コンサートは惡くないが、クライバーやテンュテット、チェリビダッケ、朝比奈、カラヤンと肩を竝べる感銘があつたとはお世辭にも云へない。偶に買ふレコードは駄作が多かつた。

 だが、この97年の第7でのバレンボイムは、紛ひもなく、これらの巨匠のコンサートの印象に竝んでゐた。特に2樂章で、本物の崇高な悲劇を生み出してゐた事は、一番の驚きだつた。それこそ、86年來日時のクライバーの2樂章の、スマートで快いが、音樂的な意味作用の點で、確かな感銘を與へてはくれない演奏とは、比較にならない偉大な音樂だと感じた。何も、アダージョのやうな重苦しい演奏といふ意味ではない。だが、主題が繰り返されながら、高潮を迎へる時、まるでホールが搖らぐやうだつたあの印象は忘れられない。呟きがいつしか天に向かつて祈りになり、天井が開いて、光が振り注ぐやうであつた。美しい音、華麗な音、力強い音、壯大な音、流麗な音、剛毅な音は、他の指揮者から聽いた事があるが、あのやうな高貴な音は、殆ど聽いた記憶はない。(その後のバレンボイムにした所で、高貴といふ言葉を連想するやうな音は、バッハの平均律をサントリーホールでやつた時以外、絶えて聽かない。)序でに云へば、4樂章の昂揚感もクライバーの優美にうねる熱狂よりも、バレンボイムのホールを突き破るやうな剛直な大きさの方が、藝格は上と感じたものだ。

 が、これも既にずゐぶん前、クライバーに至つては、23年も前の話だ!23年と云へば、1977年から振返つてフルトヴェングラーが死んだ54年といふ事になる。何と云ふ歳月が、私の生の前を、既に流れてしまつた事であらう。

 レコードに戻るが、面白いことに、ラヴェルはヴァグナーより、録音年はもつと前なのに、とてもいゝ。やはり柄の大きな演奏だが、拔群にうまく、精妙さも充分である。フランス音樂の精妙とドイツ和聲音樂の精妙とは、まるで違ひ、表現する技法も、藝術家としての心境も、異なつた作用をする。美が前面で花やいでゐるのか、奧の方でうねりながら、目に見えないところから效果が發生するのかの違ひとであらうか。

 夜明けの壯大さは、誰でも出來るやうで、かう巧くはなかなかゆかない。カラヤンのやうに人工的ではなく、フランス系の指揮者よりも音色に影がある。全員の踊りのリズムは、シカゴ響らしいパンチ力でひた押しだが、これは、最近聽いたマゼール&ニューヨークフィルの老獪なまでの華麗さの方が、印象的だつた。

 さう云へば、マゼールとニューヨークフィル、餘り纏まつたレコードがないまゝをわつてしまつたのは、殘念である。力量のやゝ落ちる指揮者が續いて、緩褌になり切つてゐたニューヨークフィルを、マゼールが、スーパーヴィルトーゾオケに復活させた。最近のこのオケは、トスカニーニ、ストコフスキー時代以來の水準だつたのではあるまいか。日本で殆ど評價されてゐないのは理不盡だと感じるが、アメリカ本國ではどうだつたのであらうか。勿論、この人は、獨澳レパートリーで、中身のない輕薄な演奏をする事も多いが、サウンドを操る能力は、カラヤン以後で最も高い。それだけでなく、ニューヨークフィルから、ヨーロッパのオケの大半から消えた20世紀前半のやはらかい文化の香りを引出す事さへあつた。來日公演では、ハイドンヴァリエーションが、忘れられない名演だつた。最後の頃の、ドイツグラムフォンの幾つかのレコードは、このコンビの仕事の高さの證明になつてゐると思ふ。

 ちなみに今日は、サントリーホールで、後任のアラン・ギルバートとニューヨークフィルの來日公演である。ギルバートがどのやうな可能性をニューヨークフィルから引出してゐるか、今から樂しみだ。(この項了)