パーヴォ・ヤルヴィ指揮シンシナティ交響樂團(於NHKホール・10月26日)(2009年10月31日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年10月31日より)

 ヤルヴィは3つのオケを振つた生を何度も聽いてきたが、二流の指揮者と云ふ他はないと思つてゐる。殘念ながら、今日もまことに退屈な演奏會だつた。以下はヤルヴィと、この度公演チラシでヤルヴィを絶讚してゐる批評家宇野功芳氏への酷評とならざるを得ない。書きたくはないが、批評家には俗を正すといふ役割がある。感じた率直なところを書く。兩氏のファンはお讀みにならぬやうに。

 どうも、最近の日本では音樂批評を書くのが劒呑だ。私には當り前と思はれる事を、他のどの批評家もはつきり書かないので、力んで云はなければならない、それがひどく居心地が惡いのである。60年前、フルトヴェングラーやトスカニーニが如何に偉大かなど、力んで書いたら、分りきつた事を云ふなと笑はれただらう。サージェントやカバスタが二流だと、わざわざ力説するなぞ餘計な話で、本人も一流と思つてゐないのだから、氣の毒なだけの話だつたらう。

 ところがどうだ。價値規範がまるで無茶な最近の日本では、バレンボイムやティーレマンが偉大だといふ事は、餘程力んで云はねば、誰の耳にもとゞかない。凡庸な批評家共は、誰一人、彼らの歴史的な偉大さを指摘しようとせず、相變らず、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュやらバーンスタイン、カラヤンの名前を出しては、昔は良かつたを繰り返すばかりである。無論、これが日本だけの例外なのは云ふまでもない。

 私自身の體驗した生演奏の印象でもレコードでも、バレンボイム、ティーレマンは、カラヤン、バーンスタインの指揮者としての音樂的力量を、既に上囘つてゐる。バレンボイムのトリスタンは、フルトヴェングラー以上の瞬間さへ多く含んでゐた。ティーレマンのブルックナーはチェリビダッケを超えたかとさへ思はれる場合が多々ある。彼らに駄演があるかどうかは問題ではない。偉大さに達する瞬間があるといふ事を指摘するのは、批評の最も名譽ある任務である筈なのだ。

 逆も同樣だ。ポリーニの力量はがた落ちだ、小澤のオペラはまるで基本がなつてゐないと云ふ、どんな驢馬の耳にも屆きさうな單純な事實さへ、云へば言葉に力みが這入つてしまふ。日本の音樂批評界では、ポリーニは、相變らず歴史上最高のピアニストに決まつてをり、出すレコードは全て同曲のベストレコードなのだし、ウィーン國立の音樂監督である世界の小澤が、オペラ振りの基本的な力量にさへ達してゐない事は、見て見ぬ振りをする慣行らしい。

 餘りに無考へ無節操に横行する通念に、ブログの隅で異を唱へるのは、日本晴の日にお天道樣の下で、誰もゐない觀客相手に、「今日は素晴しい天氣であります!」と力み返つて演説してゐるやうな、滑稽と空虚を覺える。價値の中身を巡つて意味のある言葉を生み出したい、それが批評家としての、私のさゝやかな希望なのだが。

 本題に這入る。
ヤルヴィの事だ。例によつて、宇野功芳氏の再三の絶讚のお蔭で、凄い指揮者だと勘違ひしてゐる向があるやうだが、飛んでもない話だ。宇野氏が長年にわたつて日本の聽衆をミスリードしてきた水準の低さには、率直のところ、大變な義憤を覺える。

 無論、氏には立派な功績もある。玉蟲色に何でも適度に襃める日本の批評家の中で、判斷を鮮明にする姿勢は、卑しくなく、私は好感を持つてゐる。大昔、日本ではまだ五大指揮者――ヴァインガルトナー、トスカニーニ、メンゲルベルク、ヴァルター、フルトヴェングラー――といふ基準が健在だつた頃、クナッパーツブッシュ、シューリヒト、クレンペラーらの價値を逸早く評價したのは、氏の慧眼だつた。朝比奈隆の價値を早くから認めたのも宇野さんである。

 だが、この20年と云ふもの、氏が發見し、激賞する音樂家は、殆どが水準以下の駄馬ばかりである。批評家が判斷を誤るのは致し方ない。私も多數のミスを犯してきたであらう。だが、程度といふものはある。程度を超えたミスを犯すまいとするのは、批評家の最低限の、讀者へのマナーに屬する。

 例を出さう。以前、宇野氏はハインツ・レーグナーといふ指揮者を絶讚してゐた。ある年、確か高校生だつた私は、その年の來日公演の中から、カラヤンとケンプとレーグナーとを選び、聽きに行きたいと父にねだつたものである。全部は無理だと云はれた。普通のサラリーマンの家庭だつたから當然だらう。交渉の結果、カラヤンなら1公演だが、レーグナーならば2公演でも構はないと云はれた私は、驚くなかれ、何と後者を選んだのである。宇野氏のアジテートを愚かにも信じ込んだ爲だつたのは云ふまでもない。

 氏は、當時、レーグナーの音を「羽二重の音」と評してゐた、恥かしい事に、そんな事さへ覺えてゐる程、氏の絶讚は、子供の私を醉はせたのである。だが私は、耳まで宇野氏に騙される程馬鹿ではなかつた。聽きに行つたレーグナーの音は、羽二重どころか、煎餠蒲團のやうにしか聞えず、それは疑ひやうもなかつたのである。レーグナーがどの程度の指揮者だつたかは、今更私が力みかへらずとも、歴史が證明してゐる。當の宇野氏の口からさへ、その名を聽く事は最早殆どない。

 無論、私は恨みから、こんな事を書いてゐるのではない。幸ひにも私は別の機會にカラヤンを生で聽いたし、批評家の判斷など當てにならないといふ實地教育を早くに受けられたのもいゝ藥だつたのだらう。
だが、これは私事ではない、笑つて濟ませる譯にはゆかない理由がある、それはかういふ事だ。

 ……宇野氏のカラヤン批判は分る。私は、フルトヴェングラー、チェリビダッケ、バレンボイムといふ血脈の側の一員であり、カラヤンを必ずしも高く評價はしてゐない。しかし、讀み手に、選りに選つて、カラヤンのコンサートを逃してでも、レーグナー如き水準の音樂家を聽きに行くやうに促す批評は、笑ひ話の域を超えて、犯罪的だと私は思ふ。音樂會の體驗は一期一會で、後からは取返しがつかないからだ。宇野氏のレーグナー絶讚に、實際に聽いて共感する人が出る事は構はない。人の判斷は樣々だ。だが、獨善的で判斷の基本を誤つてゐるとしか思へぬ批評によつて、多くの讀者から、カラヤンのやうな水準の藝術家を生で聽くと云ふ經驗を奪ふ事は、許されていゝ事だと思はない。

 60年前に、有力な批評家が、フルトヴェングラーを糞味噌に云ひ、今聽くべきはサージェントの羽二重の音だ、と熱辯してゐたと想像したまへ。或るフランスかオランダ邊りの田舍の高校生が、親の貧しい嚢中から、或いは乏しい自分の小遣ひから、フルトヴェングラーの《第九》の代りに、サージェント指揮のモーツァルトやら《惑星》か何かの公演チケットを買つたと想像してみたまへ。その直後にフルトヴェングラーは死んでしまつたと想像してみたまへ。これは、批評家の音樂的判斷のミスと云へる水準を越えてゐる。彼の輕薄な思ひ込みとアジテートが、或る一人の音樂好きな若者から、人生で決定的に重要な體驗となり得る何かを永遠に奪つた事になるからだ。

 さて、今囘に限り、特に宇野氏にしつこく絡むのは、チラシに次のやうなヤルヴィ評を見て、本當に腹が立つて仕方ないたからだ。ヤルヴィ指揮シンシナティ交響樂團の《幻想交響曲》をサントリーホールで聽いた感想として書かれた宇野氏のチラシ文面である。

 「~まるで魔法だ。ぼくはあんな響きを今まで耳にしたことがなく ~略~耳のよい指揮者、統率力のある指揮者は他にもたくさん居る。セル、ブーレーズ、マゼールなど。~略~ヤルヴィの魔法はそれをはるかに超えてゐる。」

 今まで、ヤルヴィを聽いて、魔法どころか、耳の良い指揮者だと云へる痕跡は皆無だつたので、この批評は始めから、論外だと思つてはゐたが、おそらく、これに釣られて「魔法」を聽きにやつてきた聽衆は多かつたらう。さう、宇野氏から「死ねば直ぐに忘れられるだらう」とさへ書かれたバレンボイムのチケットなど見向きもせずに。そして、宇野氏に「ドイツの田舍者」と罵られたティーレマンの來春のブルックナーのチケットも買はずに。

 私は、先入觀で耳を汚す事はしたくないので、當然ながら豫斷は持たずに、今日のヤルヴィを聽いた。その程度の心の修養が出來なければ、批評など出來るものではない。その結果はどうであつたか。退屈極まる凡庸な演奏だ。セル、マゼールのオーケストラマジックを罵倒して、これを持上げるとは、幾ら何でも恐れ入る。さすがは、かつてレーグナーに羽二重の美音を聽き取つた宇野さんの耳だけはある。ヤルヴィ=シンシテナティに魔法を聽けるとは、途轍もない聽力だ。どんな醜女も美人に見える眼を持つた人のやうなものだ。羨ましい。お多福を引つ掛けても最高の氣分になれるのだから、氏の耳の中は、地上の極樂かと思はれる。多分、宇野さんに魔法をかけたのはヤルヴィではなく、プロスペローだつたのだ。最近の宇野さんの耳は、キャリバンやトリンキュロー達宜しく、プロスペローの魔法によつて、恒常的に醉つ拂つてゐるのであらう。本當の醉生夢死だ。最近飮んでもなかなか醉へぬ私には、これ又羨ましい限りである。

 私の聽いたのは NHKホールだが、もしヤルヴィがサントリーホールで魔法を掛けられる程の人ならば、NHKホールは充分に鳴らせる。かつてのベーム=ウィーンフィルの大名演もNHKホールだつた。先日バレンボイムの、やゝ手拔のヴェルディ《レクイエム》でさへ、易々と、實に豐饒でメロウな音が、和聲的な緊密の度合を正確に傳へながら、あのホールを滿たしてゐた。物理的な音量の問題ではない。響きと心理の關係への經驗と洞察が生む、これは技術上の奇跡なのである。宇野氏が名前を出してゐたセルやマゼールは、無論、さうした技倆の點で、最高度の指揮者達に屬する。ヤルヴィの音樂を氏が好むのは構はない。だが、セルらの名前を持ち出して、響きの點でヤルヴィを上位を置くのが、よりによつて第一線の音樂批評家だといふのは、正直云つて信じ難い話である。カローラをフェラーリより好むのは構はない。だが、カローラの方が加速能力が高く、スピードも出ると云つたら、それは嘘だ。セル、マゼール以上にヤルヴィ=シンシナティが響きの魔法を驅使してゐるとするのは、それと同じやうな、批評の判斷の許容外の「嘘」としか、私には思へない。

 冒頭のコープランド《庶民のファンファーレ》で、私は魔法から眞つ先に見放される思ひがした。固い音だ。融け合はない。胸をときめかす指揮者固有の文體がない。NHKのアナウンサーの朗讀のやうだ。マゼールならニューヨークフィルから、こんな貧しくニュアンスのない音は出さないに違ひない、たとひ、空疎極まる『エロイカ』やブラームスを指揮する事はあつたとしても。

 2曲目、バーバーの弦樂の爲のレクイエムは、ファンファーレとの對照の妙。心の籠つた演奏だが、それ以上に胸を撃つ特別な時間にはならなかつた。

 3曲目、バーンスタインの《シンフォニックダンス》は、圖らずも先日、バレンボイムのCD評を書くので聽き込んでゐたが、今日のヤルヴィの演奏は、豫想をはるかに下囘る駄演である。プロローグの、ジャズ風のリズムから冱えない。投げやりで、リズムが上滑りしてゐる。物語が始まる豫感もまるでない。デリカシーのかけらすらない。だが、この音樂は、デリカシーの塊ではないのか。

 バーンスタインはブリリアントな自作自演を殘してゐるし、バレンボイム盤は、交響詩のやうな雄大な流れを作るが、いづれも音樂の生彩の次元が、今日のヤルヴィとはまるで違ふ。このやうな曲では、ヤルヴィは切れ味のいゝ指揮だけはするだらうと思つてゐたので、冱えないダルな雰圍氣のまゝ、見通しも惡く、クライマックスの疉み込みさへ決まらぬ演奏に、私は心底驚いた。サムフォアはそれなりに美しいが、スケルツォからマンボに雪崩込む邊りは、何とも響きはごちやつき、音樂の方向感覺も漠然としてゐる。終曲も丁寧な演奏だが、印象に殘る程ではない。

 後半の『新世界』は、ヤルヴィが文體も音も持たない指揮者だといふ事の再確認のやうなものだつた。例へば、管のバランスに目新しさがあるとか、第2主題で物凄く大きくテンポを落して、地面に落ちてしまひさうなリズムを掬ひ上げるやうな優しさを見せる、さうした事はそこここにある。だが、《新世界》では、その手の新機軸はあらかたやり盡くされてゐるし、そもそも、優れた指揮者は、何も特別な事をやつてゐない場所で、音樂の豐かさにより聽き手を滿たすものだ。さうした魅力がこの指揮者にはまるでない。

 例へば、出出しからティンパニの突然の爆發までを、ストコフスキーやチェリビダッケが、のめり込ませるやうな魅力で始める樣を聽いてみるがいゝ。それにしてもヤルヴィの主題のリズムはどうだ。何とパンチがないんだ。音はどうだ。今書きながらまるで思ひ出せない程、印象に殘つてゐないではないか。第一主題のホルン一つで、優れた指揮者ならどれだけの夢を聽き手に見せる事が出來るか。ヤルヴィの演奏が、さうしたディテールで何と貧相である事か。

 だが、2樂章は美しかつた。夢見がちな木管群から夢見がちな音とバランスを引出してゐて、今日一番良質であつた。プログラム全般を通じて、當面、抒情的な靜かな部分は、惡口を云はずに聽ける水準だと云ふ譯だらうか。

 3樂章になると、やはりリズムも音も冱えない。4樂章でも、私は、もうあり餘る退屈を持て餘してしまふ。音樂的仕掛の面白さが幾らでも試みられる所なのに。その上、最後まで音樂的なクライマックスがまるで見えてこない。音量ではなく、音壓と云はうか、時間の累積によつて、音樂が高潮してゆく滿足がまるでない。

 焦つても仕方なからうが、早く、バレンボイム、ティーレマン、パッパーノ、ナガノ、ドゥダメルらが基準となり、指揮者の質が、カラヤン=チェリビダッケ時代以前に戻らん事を、願ふのみである。

 讀者には、亂文大變申し譯ない。(この項了)