マリス・ヤンソンス指揮/五嶋みどり=ヴァイオリン/バイエルン放送交響樂團(1)(2011年11月18日)


(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年11月18日より)

ベートーヴェン作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調/チャイコフスキー作曲交響曲第5番ホ單調(於サントリーホール11月16日)

 愉樂の時間、素晴しいコンサートだつた。

 ヤンソンスは、毎年來日の度に、コンセルトヘボウとバイエルンと雙方で聽き續けてゐるが、今囘は、最も感銘を受けたと云つていゝ。近頃、嬉しい出來事である。

 コンセルトヘボウの音樂監督就任からの時間が餘り經つてゐない爲か、私はコンセルトヘボウとの2度の來日公演は、中身も響きも薄い出來榮えに止つてゐたやうに思ふ。從つて、ヤンソンスは、バイエルンとの來日の方が、音樂が練れてゐるといふ印象は、毎度の事ではあつたが、今囘は、さうした事を超えて、實に充實した時間である。

 もつとも、前囘來日は、歩が惡かつた事もある。私は、直前に來日したバレンボイムとティーレマンを全公演、つまり合計20囘立て續けに聽いてゐたので、――奇跡のトリスタンとブルックナーの《第5》を含むあの時である!――耳が、それになじんでしまつてゐ、ヤンソンスが優れた音樂家である事は、分つてゐても、音が鳴つただけで、付合ふ氣力が湧かなかつた。優等生の平板さにしか聽こえなかつたからだ。今囘は、逆に、期待外れの公演が續く中でのヤンソンスである。とりわけ、先日聽いた、ギルバート指揮ニューヨークフィルやヤルヴィ指揮シンシナティは、ファンの方には申し譯ないが、酷評した通り、全くの二級品である。今日は、ベートーヴェンの最初の數小節で、彼らとは、次元がまるで違ふ充實した響きであり、音樂の豐かさだ。

 實は、編成がコントラバス4臺と小さかつたので、今どきのスリムな――貧相な――ベートーヴェンを聽かされるのかと一抹の危惧があつたが、全くの杞憂だつた!何と豐かな音樂であり、音であらう。最初のティンパニは、フルトヴェングラーの奇跡のやうな足取りと比較しなければ、既に、音樂性横溢する素晴しい開始、木管の自然で伸びやかな、奏者が自由に歌ふ素晴しい演奏である。そして、弦の溢れるやうな輝き! トゥッティは、精妙で、明るく、しかも密度が濃い。オーケストラ全體が、一つの樂器のやうだ。どの樂器も突出せず、透明な果汁のやうな甘みを發散しながら、瞬時に、ホールに滲透する。さはやかだが、又、實に密度の濃い音だ。ウィーンフィルが本氣を出した時の濃密な色彩はないし、ティーレマン指揮ミュンヘンフィルやマゼール指揮ニューヨークフィルの古拙な重厚さもない。指揮者の個性で言へば、ナガノのやうな、尋常でない鋭い色彩感もない。それなのに、凡庸さから程遠い。

 絶えず音樂の泉が溢れ、愉悦がこぼれ落ちる。

 前囘もこんなに良かつたのだらうか? だが、今日の水準は、ティーレマンの後だと退屈して、ヤルヴィの後だから見事に聽こえるといふ程、やはな出來ではないやうだ。これは、やはり、ヤンソンスとバイエルンのコンビが、ごく最近、急速に成熟した關係に入つてゐる證とした方が良いのではなからうか。記憶の中の、前囘來日のブラームス第1もブルックナー第7も、こんなに、樂器相互が伸縮自在なバランスで鳴つてはゐなかつた。こんなに自由に歌つてはゐなかつた。こんなに豐かにホールが鳴つてはゐなかつた。

 何とも豐麗なのである。それでゐて、ベートーヴェンの樣式からずれてゐず、しかも、效果の外側を滑つてゆくといふことでもない。指揮者とオケが一體となつて、歌ふ喜びを謳歌してゐる。

 第2主題の、ふとした表情の翳り。一方、堂々たるトゥテッィへと駈け上がるクレッシェンドの稀に見る美しさ。厚みのある管と、その管と融け合ひながら、完全に主導權を取る弦の厚みのある透明な響き。ティンパニも最強打させる事が殆どないのに、慾求不滿にならず、何とも心地好い。オケだけの提示部を聽くみどりの表情も、單に出を待つ時のソリストのそれといふより、思はず聽き惚れてゐる人の顏だつた。

 そして、みどりのソロが、これ又素晴しい。纖細のきはみである。まるで餘白で象徴する墨繪のやうに、極度にデリケートなモノトーンの弱音を主として、千差萬別に歌ひ分ける。息を飲むピアニッシモやディミヌエンドが多用され、歌が沈潛すれば止まりさうになる。それでゐて、音樂の骨格が大きい。感覺的に細部に耽溺する線の細さは微塵もなく、あのベートーヴェンの、高貴さを存分に歌ひ上げて、音樂は寧ろ雄々しい。

 指揮とオケとみどりが、それぞれ、即興的なやり取りをしてゐるやうに聞える場面も多かつた。はつとするやうな、スビト・ピアノや息を呑むパウゼが、何度か聽かれたが、音樂は、その都度、洗ひ直されたやうに、啓示を告げる。

 2樂章は、大抵の演奏では、天國的に睡くなるが、今日は、本物の天國に羽ばたく歌だつた。音樂による冥想でもあり、もう一つの《田園》でもある。親密な初戀のやうな優しく遠慮深げな愛の會話でもある。ヤンソンスとみどりは、その全てを描き盡してゐた。

 3樂章の愉悦に就てはもう多言を要しまい。久しぶりに、身體が搖れるのを抑へなければならないやうな演奏を聽くことが出來た。ヤンソンスは、こゝでも、優雅で、力まないが、それは何と心掻きたてる優しさであり、音樂を底で支へるリズムの力は、何と強い事だらう。

 それにしても、みどりによる最後のカデンツァの見事だつた事! 音樂が、地に這ひ降り、そして、攀ぢ登り、綿々と歌ふかと思へば、狂亂する、それを、みどりは、ハイフェッツのやうな技術的な鮮烈の上に、音樂と完全に同化した巫のやうな沒入で、完璧に演じ切る。全くの天才と呼ぶ他ないではないか。

 本ブログに寄稿してくれてゐる石村利勝君は、實は、ヴァイオリン氣違ひである。石村よ、いづれ、君が日本に戻つた時には、みどりは一緒に行かうぢやないか! そして終つた後、ヴァイオリン談義で、飮み明さう。江戸八で壽司を食ひ、河岸を六本木から新橋にでも變へてさ。勿論、途中の五十年はすつ飛ばして、クライスラー、ティボー、シゲティ、メニューヒンらとみどりを竝べて、酒の肴にしませうよ。あの纖細さ、あの音樂的な密度、肉感的な喜びをもその氣になれば幾らでも生み出せる歌の昂揚、音樂的叡智――。

 私見では、みどりこそは、現存の日本人のクラシック演奏家で、最も偉大な人だと思つてゐる。ヴァイオリニストとしても、老巨匠ギトリスとイダ・ヘンデルを除外すれば、ムター、ツィンマーマンと竝ぶ、世界の最高峰ではあるまいか。日本人自身が、彼女を、單に世界的に有名なアーティストといふ以上の、壓倒的な存在だと辨へてゐるのか、どうか。いつも、會場での拍手の樣子を見ると、少し寂しくなる。(この項續く)