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マリス・ヤンソンス指揮/五島みどり=ヴァイオリン/バイエルン放送交響樂團(於サントリーホール11月16日)2(2009年11月20日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年11月20日より)

 後半のチャイコフスキー《第5》は編成を大きくしての演奏。詳論はしないが、素晴しい演奏だつた。冒頭から、寧ろ、剛毅で、細部に拘泥しない強い音樂である。音量もアタックも決然と強めの序奏に驚いたが、この曲に、感傷や深讀みを持込む演奏へのアンチテーゼだらうか。ムラヴィンスキーとカラヤン雙方からの、直傳の讀みなのであらうか。ちなみに、ライヴァルだつたテミルカーノフは、變化自在の19世紀ヴィルトーゾ風の《第5》で、すすり泣くやうな第2主題、第2樂章だつたが、ヤンソンスのはどこをとつても、涙のない、ひたすら剛毅清潔な演奏である。それでゐて、プラスティックな演奏では無論ない。音樂の手觸りは温い。温いが、ぬるま湯ではない。この匙加減に、私は驚いた。私は、メンゲルベルク=テミルカーノフ的耽溺が好きだし、一方、チェリビダッケの、觀念的な演奏は、いつそう好きである。それだけに、この清潔で温かで、音のご馳走のやうな《第5》が、これ程面白く聽けたところに、ヤンソンスの確かな成熟を見ない譯にはゆかない。

 大げさなラインで音樂を作ることをしない代りに、今日の演奏では、細部への奏者らの、樂曲への愛情深い注意と、各自が己の歌を、丹念に且つ即興的な自由さで歌ふ、自由とが、際立つてゐる。自由さを許しながら、有機的に全體をなしてゐる。この曲を書いてゐた時のチャイコフスキーは、精神的な危機にあり、丸2日も泣いたり絶叫したりといふ恐ろしい状態で作曲を續けた。しかし、出來上つたこの曲は、歌舞伎十八番のやうに、板に付いた、大名人の熟達した仕事だ。チャイコフスキーの觀念や感傷ではなく、音樂そのものが、本當はさうである所の、晴朗さに、すなほに耳傾けたらどうか。ヤンソンスは、あへて言葉にすれば、さう言つてゐるやうだ。

 フィナーレも、率直でだうだうたる運びだが、多くの指揮者のやうに、これでもかといふあふりは全くない。それでゐて、いつも、滿足し、次の瞬間の音が、表情が、樂しみでならないのである。細部の讀みにも新鮮なところが無數あつた。コーダへの入りも、とにかく、もう氣持のいゝ鳴りつぷり。そして、コーダは、品格のある輝かしさだが、私は、こゝを聽きながら、實に久々に涙が出た。それでゐて、特に、強烈な感情の流露があるでもない。痛烈な音でもない。相變らず、黄金の均衡で、あのおいしい音が鳴つてゐるだけなのだ。音樂家の、音樂への自然で横溢する無償の愛が、本當に、音樂的感銘につながつてゐる珍しい例が、現在のヤンソンスなのかもしれない。それならば、我々の時代は、新しいタイプの巨匠を、ヤンソンスに見る事になるのかもしれない。

 珍しくアンコールまで殘つて聽いた。出來れば、もつとあの音の心地好さに浸つてゐたいと思つたからだ。幸福といふものが音になつた姿を聽きたければ、ヤンソンス指揮のバイエルン放送響を、一度聽きに行つてみ給へ、友人にはさう言つて紹介しようかと思ふ。

 なほ、最近發賣になつた、彼らによる同曲のレコードの出來は知らないが、今日の演奏を聽く限り、買ふ價値は、あるのではなからうか。(この項了)

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