ティーレマンのベートーヴェンチクルス、衝撃の《第7》!(2)(2010年06月13日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2010年06月13日より)

クリスティアン・ティーレマン指揮/ウィーンフィルハーモニー管絃樂團/ベートーヴェン交響曲第8番、エグモント序曲、第7番(2009年11月22日)

 (承前)冒頭の晴れやかな音! 拔け切つた、力みのない、優しい、しかし、實に充實したフォルテである。序奏部冒頭はやゝ早めに流し、16分音符の動きが出る直前で思ひきりルバートを掛け、さて、低弦が、呟くやうに立ちのぼる。それが易々と、豐かなクレッシェンドを經て――ゆとりのある、スケールの大きな、溜息の出る程美しいクレッシェンドといふのは、決して易しいものではない!――、雄大なアーチが次々にかゝる樣は、アルプスの山脈のやうだ。
構へは大きいのだが、奏者一人一人の息づかひまで聞こえさうなこまやかな歌に滿ちてゐて、どの瞬間も、まるでこの曲を始めて聽くやうに新鮮だ。演奏家達の、音樂への嬉々とした集中と奉仕とが、はつきりと音に乘つて傳はる快さは、格別である。

 しかし、無論、それだけではない。これは、同じ遲めの演奏でも、アレグロへの豫感でぐいぐい押すフルトヴェングラーの演奏とも、クレンペラーの彫塑的で動かない演奏とも違ふ。この序奏は、御承知のやうに、低弦から高弦に向ふ上向音型を繰返し、管が和聲の詰め物になつて、對位法的に掛合ふ單純なフレーズだが、ティーレマンでは、この兩者の絡み合ひが絶妙な味はひになつてゐるのである。フレーズの終りに向つて、その度に弦の音色に重たいクレッシェンドが掛り、それを受けて次のフレーズの管がさびと氣合充分な和音で應へる。ウィーンフィルの名人藝が冱え渡つてこその事、と言ひたいところだが、同じウィーンフィルでも、クライバー、ベーム、バーンスタインのレコードからは別にこんな味はひは聽こえてこない。いや、比較は別にして、この序奏がこんな面白い音樂だと感じたのは、私には本當に初めて。

 主部も王道を行きながら、こゝまで音樂的な「面白さ」の充溢した演奏は、ちよつと思ひつかない。フルトヴェングラーの緻密の限りを盡くした和聲進行のドラマツルギーは無論見事だが、ティーレマンのは、よりおほらかに見えて、しかし、自然に打出される偉容と、リズムがその時々に取る多彩な表情、音色の喜び! 喜びと言へば、提示部の終止に入る處や、展開部の冒頭などでは獨特の溜めとルバートがかゝるが、これも押しつけがましくなく、何とも樂しげなのだ。してやつたりといふ奏者らのいたづらな顏が見えて來さうだ。

 展開部でも、さほど緻密ないぢりはないのに、音樂の濃度が異常に深い。繰返し聽きたくて堪らない、癖になりさうな演奏なのだが、何がさうさせるのだらう、まだはつきりとは解らない。フルトヴェングラーの深刻さ、クライバーの絶えず沸立つさはやかな微笑、チェリビダッケのリズムの解剖實驗のやうでゐて春の海のやうにうねる雄大な世界は、それぞれ素晴しい。だが、ティーレマンのこの展開部は、どちらかと言ふと、これら巨匠の演奏が「方法」に見えてしまふ程、生命力そのものの絶えざる沸騰、絶えざる挑戰そのものに聽こえる。大げさに言ふと、太古、無機質だつた大地に、みるみる濃緑の廣がり、活力に溢れた動物達が疾驅するに至る生命進化のパノラマを瞬時に見るやうな、やたら爽快な氣分に私はなつた。

 2樂章こそは、しかし、この演奏の掛け値なしの偉大さの證明であるだらう。主題の提示だけで、私の胸は一杯だ。何と清潔で、しかし、心の奧にまつすぐ屆く音である事か。特に、主題後半が繰返される時の、息を飮むやうなピアニッシモの痛切さは、私には全く未聞の世界である。高音の樂器に徐々に引き繼がれながら、高まり續ける音の波に、私は、殆ど茫然と息を飲む。

 ティーレマンが、この音樂に聽いたものは、恐らく、嚴肅な悲劇の感覺である。ギリシア悲劇のやうに、こゝでは宿命そのものが主人公のやうだ。こゝでの音達は、曇のない冬の朝日のやうな嚴しい光に照され、清潔な沈默を守り切る。だが、その沈默を超えて、音樂そのものからこんこんと溢れるこの歎きは何だらう。作者の、自分の運命への歎きなどではない筈である。これは小林秀雄の言ふ「死兒を思ふ母親の歎き」ではあるまいか。母性のみが知る限りない赦しと優情の歌なのではあるまいか。悲劇の嚴正さが、これ程の優しさに滿たされてゐる、これこそは、ベートーヴェンといふ近代藝術のチャンピオンが發見した世界の味はひなのであらう。それならば、こゝに響いてゐる非日常の感覺は、音によつて描かれた、人類の歴史への歎きなのだらうか。

 無論、ティーレマンは、このやうな言葉を批評家の囈言と笑ひ去るだらう。だが、勿論、私が言ひたいのは、彼が音樂に、觀念的な何かを持込んだといふ話ではない、逆である。彼が音樂に何物も持込まなかつた時に、その異樣な迄の無私によつて、音樂が己を開示した、私は、その時ベートーヴェン自身の創造の祕密を聽いたと直覺した、その有樣に不器用な言葉を與へてゐるだけの事なのである。
中間部の夢見るやうな眼差しの遠さ、懷かしさも、從つて、私には同じ根から生れた音と聽こえる。(この項續く)