最近聽いたレコードから。(2010年8月3日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2010年08月03日より)

 久々の新稿である。
 原稿を書く時間がない。さういふ言ひ譯もずゐぶん續いたが、六月より實業の方に割かねばならぬ時間が増え、机に向かふと手紙かメールを書いてばかりといふ始末で、今度こそは、どうにも致し方がない。音樂を聽く時間もなかなか取れない。最近、心身共に具合をやゝ惡くしたので、伊豆の自宅で靜養したが、音樂に心が昂揚してゆかない。慰めを求めるにも、或いは氣力といふものが必要なのであらうか。

 チェリビダッケの悲愴の原稿は書き掛けてあるが、あれを聽き直して改めて書くのは、少し先になりさうである。しかし、かうして机に向かつてゐると、氣力の充實を阻む樣々な條件への鬪志が沸いてくるのも事實だ。少し先を、大分先にしないで濟むやう、近く改めて筆を進めて完成させるとしよう。

 最近、聽いた音樂で印象に殘つたものは幾つかある。チェリビダッケの指揮したモーツァルトの《レクイエム》には非常に強い感動を受けた。この音樂には、アーノンクールの場合最も極端に現はれるやうに、まるで地獄の釜の底から聞える阿鼻叫喚のやうにも聞えるが、チェリビダッケは、こゝに考へられぬ程深い死の慰め、生の後の限りない甘美な慰謝を發見してゐる。まだ若かつたモーツァルトが、生身のモーツァルトが發見したのは死の深淵からの脅迫だつたかもしれないが、モーツァルトの魂が本當に聽いてゐたのは、死の彼方から射す天上の光だつた、自身も死の強い影の中で生きてゐた老チェリビダッケの、これはモーツァルトへの、そして後世への最も貴重な贈り物かもしれない。ちなみにこの演奏では、後半のジェスマイヤーによる加筆部分が、全く聽き劣りしない。無論、そんな筈はないのだらう。だが、私の心は完全に明け渡され、無限に續くかと思はれる慰謝の中に融けてゆく快さばかりが記憶に殘つてゐる。今囘は、長野諏訪への仕事歸り、妻の運轉での車中、夜の富士で聽いた。

 生涯の思ひ出になりさうである。

 前囘書いたティーレマンのベートーヴェンでは、その後、今年3月ウィーンで行はれた《第6》《第5》のプログラムも買つた。これも又、驚く程素晴しい。《第6》の音のイメージは、冒頭からフルトヴェングラーそのものである。深い呼吸、温い音色、しかし、歌はせる優美なフレージング、これはフルトヴェングラーのより濃厚だが、リズムの推進力が勝る行き方と違ふ。歌ふ息の長さ、その美しさは格別である。壯絶な4樂章の嵐の後、5樂章の法悦はどうだらう。溢れ、溢れる喜びの祈りの深さに、私は言葉もなかつた。《第5》は來日公演で聽いたばかりだが、かうしてレコードで聽くと、やはり卓越してゐると思はざるを得ない。力みのない1樂章、あゝこれもフルトヴェングラーのウィーンフィルとの54年の《第5》の音のイメージに近い。あの演奏は、私は必ずしも好まないできたが、かうしてウィーンフィルが半世紀を隔てゝ、ティーレマンの棒の下、同じイメージ、バランスで朗々と歌ひ出すのを聽くと、感慨はひとしほである。4樂章の極端なアゴーギグを驅使しながら、徐々に加速してゆくやり方は、ウィーンでも贊否兩論だつたやうだが、これは、音樂の中にある加速構造を、より顯在化した行き方で、後は、ベートーヴェンの音樂的なエネルギーの眞實を、ティーレマンと現代の樂團員が、どこまで眞實のまゝ、遊戲ではない音樂的な眞實として生きてゐるかに掛かつてゐるだらう。私は、このどこまでも突き進む晴朗な音樂の力に、改めて強烈な眩暈を覺えた。

 フルトヴェングラーが處女論文である『ベートーヴェン』といふ短いエセーで、ベートーヴェンのリアリティが今日完全に失はれてゐると歎いたのは1918年のことだ。時代の進行と共に、ベートーヴェンのリアリティの再現が難しくなつたといふ譯ではないことの、これは一つの傍證になるだらう。そして、彼の指揮者としての生涯は、正に、ベートーヴェンのリアリティを證明する戰ひだつたとも言へる。フルトヴェングラーの場合、美學的にはベートーヴェンを否定的にとらへる時代だつた半面、政治的大動亂の最中だつたがゆゑに、ベートーヴェンは、切實に必要ともされ、政治的に濫用されもした。ドイツ降伏の日にベートーヴェンの《第5》の3樂章までを演奏し、日本降伏の日にフィナーレを演奏したトスカニーニは、事あるごとにマイスタージンガーで戰意昂揚を計らうとしたヒトラーを嗤へないだらう。フルトヴェングラーは、美學的な立場からベートーヴェンを守る戰ひと、政治煽動の手段化から守る戰ひとを、強ひられた。それは恐らく痛烈な彼の心の傷となり、孤獨の原因となると共に、その演奏に、音樂的に完備された解釋としてのベートーヴェンを超えた何かを刻印した。その後の演奏樣式が二轉三轉しても、フルトヴェングラーが、あらゆる後進の音樂家――アーノンクール、アバド、バレンボイム、ラトル、ティーレマン――に、甚大な影響を與へてゐるのは、この方法論を超えた何かの爲だらう。そして、その何かこそは、偉大な藝術を偉大たらしめてゐるところのものだ。

 ティーレマンのベートーヴェンに私が直觀したのはやはりそれと同じ「何か」である。だが、それをティーレマンが何と戰つて得たのか、何を代償として得たのか、それはまだ、私には分らない。美學的にも、社會的にも、私どもが戰ひ克服するべき「敵」は、フルトヴェングラーの時代のやうに見易くはない。見易くないどころか、それはどこにも見當らないやうでさへある。最近、石原愼太郎氏が産經新聞の連載で、世界中に萬延する拜金主義、金まみれを批判し續けてゐるが、――私は今新聞を取つてゐない、奇妙なことに、ごく稀に新聞を買ふ日に限つて、氏の月1囘連載の日に當るのである。――敵は、この一見ナイーヴだが、否定できない傾向にあるのか。もしさうならば、拜金主義が、美學もイデオロギーも呑込んでゆく、その時に、人が生きてゐる意味を問續ける藝術は、改めて、本當の存在意義が問はれるだらう。ティーレマンは、そのやうな時代の藝術の意味を私どもに投げ返してゐると言へるだらうか。あるいはそのやうな自覺なしに、巨大な仕事をなし遂げてしまふといふ天才かとも見えるが、まだ、その行方を確かには見定められない。たゞ、確かなのは、この人の今のベートーヴェンのリアリティの確かさと太太しさ、生き生きした樣である。

 今囘伊豆逗留中は、カール・ベーム指揮の《フィガロ》を見た。映像盤ではなく、來日公演の記録である。私が今疲れてゐるせゐもあり、燃燒しきつて沒頭する樂しみまでは致らなかつた。しかし、指揮も歌唱も見事である。見た目の老衰は甚しいベームだが、音樂は弛緩しない。自然でありながら、見事な大きさである。フィガロのヘルマン・プライ、スザンナのルチア・ポップは聲、容姿共に最高度に魅力的である。伯爵夫人のヤノヴィッツは氣品に溢れ、聲も驚く程よい状態である。しかし容姿がどちらかと言ふとビクトリア朝風に重たいので、モーツァルトのイメージする伯爵夫人の鮮やかな官能はやゝ遠退いた印象である。ケルビーノのアグネス・バルツァも勿論素晴しい。このやうに聲が濃厚な女性的な官能を放つケルビーノは、私は嫌ひではない。

 たゞ、私は、心勞の甚しい爲であらうが、この演奏に、夢中になれない自分をもどかしくもう一人の自分が見てゐるといふ印象を抑へられなかつた。或る意味で言ふと、優れた過去の上演、しかし、先程來の言ひ方をすると、今日的なリアリティが感じられない。それでは、アーノンクール指揮で、例のネトレプコ達が歌つた最近の上演のリアリティが上かといふとさういふ問題ではない。たまたまヤノヴィッツをビクトリア朝風と形容したが、ベームの演奏は全體に、さうした何か音樂の衣裳の重たさを感じさせ、登場人物らの鮮やかで赤裸々な人間劇が樣式化されて見えた。一方、アーノンクールの方は、性愛の氣配を全體に濃厚に見せてゐ、ほゞ亂倫と言へる程だが、これはモーツァルトの音樂や脚本を素直に讀めば、勿論、絶對に出て來ない解釋である。脚本は行間を讀むといふ手があり、スザンナと伯爵が實は肉體關係があつたとしてもをかしくないかもしれないが、スザンナの音樂には、さうした聯想をきつぱりこばむものがあり、これを裏切つてはモーツァルトの今日性もへつたくれもないだらう。

 もしベームが舊來の傳統的上演の美質を最高に現してゐ、アーノンクールが現代的な讀換へ上演の上質な例だとするならば、《フィガロ》には、もつと別の道が摸索されなければならないだらう。この作品は、《魔笛》《ドン・ジョヴァンニ》にくらべても、明らかに、本當に滿足する上演を實現するのは難しい。狂つた一日にしては、音樂が清澄に過ぎるし、4幕を喜悦で締めくくるには、幾人もの登場人物の胸に溢れてゐる眞摯な愛と、色情に溺れてゐる伯爵その人の或る種の哀切さとを、共にもつと純粹に信じてみなければ、話は前に進むまい。

 いづれ考へてみたい。(この項了)