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スティーヴン・イッサーリス チェロリサイタル(1)(2011年5月21日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2011年05月21日より)

平成23年5月18日於紀尾井ホール/シューマン 幻想小曲集op73/ショパン チェロソナタop65/ユリウス・イッサーリス バラード/ラヴェル 2つのヘブライの歌/プーランク チェロソナタ

 久々にコンサート評が入るので、ティーレマンに就ての雜談、一度中斷する。2囘連載。その後、ほゞ書き上げてゐるティーレマンについてを再度掲載する。諒承願へれば有難い。

 最初の響きが會場を靜かに滿たした瞬間の、あの慰謝と深い喜び……。内面が秩序づけられ、私の心は、自づから深呼吸を始めた。日常の雜然とした時間が瞬時に停止し、本當の「時」がそこに瞬時に出現する、あの偉大な音樂の奇跡が起きたのだ。イッサーリスの音は、鳴り響くや否や、既に歌である。そして、歌が、奏者の靜謐な冥想の中から立ち上るといふ實感をこれ程正面から「見た」のは、私の長いコンサート通ひでも始めての經驗ではなかつたか。何と温い歌が、さう、遠くから夢見るやうに、ホールにとゞいたことだらう。

 月竝な言ひ方だが、私は、胸が一杯になつた。私の今の人生は、何と精神的な饑餓に追ひ詰められ、ぱさぱさに渇き、生きてゐるとは名ばかりの、死んだ時間であつたことか。イッサーリスの「音」といふ恩寵に觸れて、私は生きてゐるといふことを、何と久し振りに確かな手應へで思ひ出したことか。

 イッサーリスの歌ふシューマンは、年久しく人間といふものに會へずにさ迷ひ續けてきた孤獨な旅人の前に思ひ掛けず現れた人家の燭のやうに、僕には温い人間のぬくもりだつた。さう、こゝには「人間」がゐる。私を信じ、私に一番親密な心の歎きを打ち明け、分ちあつてくれる人間が。打ち明けるに足る心を持つた人間が。優しい心を持て餘して友を求めてゐる人間が。

 だから現れたのだ、シューマンの友人として、イッサーリスが。シューマンに寄り添ふイッサーリスの心は、何と純粹な友情に澄み切つてゐたことだらう。イッサーリスは、自らが所有してゐる名人藝のあらゆる意匠と緊張から完全に解き放たれて、友人の歌を歌つてゐた。僕は、忘れてゐた無償の愛につゝまれた。現實といふ名の無數の壁のお蔭で、人と人との間には實際に作り出せない無償の愛といふものに。だが、音樂が、作曲家と演奏家の間に交はされた無私の愛の、高雅な自由に達する瞬間が、實際にどれ程あり得るだらうか。サントリーホールでバレンボイムの彈いたバッハの平均律、イダ・ヘンデルのシャコンヌ、引退公演でのペーター・シュライアーの冬の旅……。共通點は一つ――最初の音の鳴り響きだけで、優しい夢のやうな別の時間が流れ始めるといふこと。

 それにしても作品73の幻想小曲集が、こんなにも豐かな、こんなにも面白い、興趣盡きない、大きな作品だつたとは! イ短調の第1曲を、イッサーリスはまるで今歌が生れるやうに歌ひ出した。いや、歌ひ出すといふよりも、まるで響きの中で冥想しながら、歌の生れを待つてゐるかのやうだつた。テンポはない、解釋もない。イッサーリスは無限の愛惜をこめて待つてゐる、歌がチェロから溢れ出すのを。ヘイウッドのピアノもイッサーリスと自在に融け合ひながら、夕陽を映す波の緩衝のやうである。と言つてモネのやうな、あるいはバレンボイム指揮のシューマンのやうな、無限に多彩な眩暈の世界ではない。深くやはらかい銀の輝きの中で、二つの樂器は、ゆつたりとたゆたひ續ける。それにしても! そのたゆたひから突如目覚めて、イッサーリスが、アレグロで音階を驅け登る時に見せるあの曇りのない痛烈な昂揚感はどうだらう。そして、その先で海原に拔けたやうな廣々とした新らしい歌。音を疾驅し、歌に上り詰めた時のイッサーリスの忘我の青い目は素晴しい。音のゆくへを追つて天翔けるヘクトルのやうではないか!(この項續く)

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