ケント・ナガノ青学オケを振る 6月5日3時青山学院講堂(2011年6月7日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2011年06月07日より)

ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」/ バッハ フーガの技法より。野平一郎編曲 /日本の5つの童謠より。獨唱 藤村美穗子

 東日本大震災の爲のチャリティーコンサートとして急遽開催された。1週間前のインフォメーションと發賣だつたにもかゝはらず、數日で完賣し、滿員であつた。私は友人ら15名程を誘ひ、聽きに出かけた。多人數を誘ひ合はせてのコンサート通ひは、昨年春のティーレマン指揮ミュンヘンフィル以來である。勿論、ケント・ナガノを、私が現存の、數少ない偉大な指揮者だと考へてゐたからであり、しかも、學生オケを振つての急遽の企畫だつた爲に、1500圓といふ價格だつた爲もある。

 公演に先立ち、主催者より、ナガノ氏が、秋のバイエルン國立歌劇場來日公演の爲の記者會見の爲の2泊3日の強行日程の中で、被災地支援のために出來ること、と考へた結果、このやうなコンサートになつたといふ報告があり、當日の收益は被害が甚大であつた大槌町の學校の樂器代に當てられるとのことである。また、ナガノ氏からの長文のメッセージが事前に讀上げられた。眼前に見える「現實」とは異なつた次元で、人間に尊嚴を與へ、希望を與へるのが藝術であること、又、このやうな困難の中で、日本が再建される希望は、今日、共演するやうな若者たちにこそ託されてゐるとのメッセージだつた。日本に到着後、夕方6時から10時までリハーサルをして、その後、明け方の4時まで掛けてメッセージを書いたさうだ。かういふ時の、儀禮的でない、眞摯なかゝはり方に、素直に心打たれた。

 ナガノに就て、日本の音樂評論家達がどう評價してゐるかは、知らない。私は、現存の指揮者中、5本の指に入る人だと思つてゐる。數年前のモントリオール交響樂團との來日公演は、その氣品の高さできはだつてゐた。それは單なる造形の端正さや音樂的な節度とは違ふので、音樂から立ち上る氣配が、響きが、高雅で清潔の極みなのである。巨大な存在――チェリビダッケ、ティーレマン。華麗なヴィルトーゾ――カラヤン。存在が音樂そのもの――クライバー、良い時のバレンボイム。だが、直かに聽いた限りで、たゞちに、その音樂の立ち居振る舞ひから、高貴さをまつすぐに感じさせてくれた指揮者は、ナガノだけだ。高貴さといふ言葉でしか表現出來ない精神の領域があるといふことを、まざまざと。

 勿論、今日は通常の批評に馴染むやうな公演ではない。學生オケである上に、5月といふことでメンバーの入れ替へ直後、急に偉い指揮者が來て、數時間のリハーサル、通常の期待値とまるで違ふ滿堂の聽衆の前での公演、心理的にはずゐぶん重壓を感じたメンバーも多かつたらう。大學オケの企畫としては無茶、しかし彼らにとつて途轍もなく貴重で甘美な、無茶であつたらう。健鬪して、公演を成功させた事に、まづ大きな拍手を送つておきたい。

 ナガノが大指揮者であるのは、序奏から主部への入りで分つた。冒頭は、過度の緊張もあり、音程はもとより、テンポも付かめないといふ印象だつたが、入りで流れのコアをしつかりと團員につかませ、後は、骨組の搖るがぬ、フォルムの美しい演奏が續く。第2主題で、私は胸が一杯になつた。歌があり、憂愁があり、遠く故郷を眺める眼差しがある。そして思ひ出した、モントリオール響との時にドビュッシーだかをやつた時に、この音の遠見の感覺が突如私の視界を廣々とさせ、高い精神の放射を一緒に受ける幸せを感じたことを。

 あの時と今日とでは、技術上のオケの差は無限でも、彼らが指揮に導かれ、歌つた歌の眞實は同等である。そして、この歌を今日歌へてゐるのは、ベルリンフィルでもモントリーオル響でもなく、青山學院の平成生れの若い諸君なのだ、偉大な音樂家と共に仕事をするといふこと、それは何と素晴しい體驗だらう。そして、それを目の當たりにする貴重な機會を與へられるといふ事も。

 とにかく、當り前に音樂は流れてゆくが、ドヴォルザークの郷愁は、胸にしみ渡る。昔、「全盛期」のカラヤンが、ベルリンフィルとドヴォルザークの8番を入れたレコードを出した時、それを聽いた吉田秀和氏が、あの序奏部のティンパニの一撃へのクレッシェンドを聽いて「ぞっとしてレコード盤から針を上げてしまった。」と書いてをられたのを思ひ出した。氏はつぶやく、マーラーやRシュトラウスではない、これはドヴォルザークなのに……。當り前のことを當り前にやつて、充分に滿足させる音樂の氣品といふものが現代の音樂家からは失はれてしまつたやうだ。と、確かセルの名盤を引合に出して書いてをられたと記憶してゐる。だが、こゝにはひよつとするとセル以上の氣品を音樂で歌ひ上げられる指揮者がゐるのである。さう、この歌、この郷愁、そして自然に眼に溢れる涙。感傷の純化を、ドヴォルザークから自然に引出せてしまふ指揮者が。

 2樂章の有名なメロディーも本當に美しい歌。今日の公演が特殊な事情だつたからだとは思へない、本物の感動があり、私は、胸が一杯になつてしまうった。正直なところ驚きである。このメロディーが心を素直に優しくするには、私たちの音樂的素養は、嫌らしいまでに肥え太つてしまつて久しいのだから。だが、私は確かに、今日、こゝに魂が顫へるやうな歌を聽いたのである。あらゆるフレーズが新鮮な、郷愁の歌を聽いたのである。

 3樂章のリズムの推進力、清潔果斷な切れ味には、掛値なしの音樂的充實を感じた。4樂章の冒頭は實に堂々たる響き。その後も、フレージングやバランスに注意を與へてゐる形跡はあるものの、全體に解釋と言へるやうな細かい指示のないストレートな演奏だが、感興は盡きない。これは何といふ事だらう。《新世界》の手慣れた演奏ならば、ウィーンフィル以下世界中のプロのオーケストラで無數に行はれてゐるだらう。それらの多くが退屈なだけの代物であるのは多分間違ひなのだらう。だが、音樂は、逆に、アマチュアオケが、懸命に演奏すれば、どんな下手でも人の心を打つといふ程甘くはない。では、今日のこの音樂的なカタルシスはどこから來たのだらう。この解放感は?

 休憩をはさんで、《フーガの技法》から、未完の終曲が追悼の祈りとして捧げられたが、これは日程などを含めて考へると、學生オケには苛酷な課題だつた。《新世界》ならば、樂器相互でミスを多少ごまくわし合へるが、何しろフーガだから、線が見えなくなると、後が續かない。冷や汗ものではあつたが、跡切れはなく、完走した。しかし、祈りに沈潛するのは正直なところ難しかつたのも事實である。

 そして、最後は、藤村美穗子を迎へての日本歌曲だ。「赤い靴」「赤トンボ」「七つの子」「夕燒こやけ」「青い目の人形」。ベンテュスといふ人の編曲で、やゝにぎやかに、そして《トゥーランドット》風の響きの多用が、日本の美學とは異質だつたが、藤村の歌唱は文句なしの素晴しさである。「赤い靴」の哀愁、「夕燒こやけ」の大きく飛翔する抒情、このヴァグナー歌手の聲の包容力、やはらかい温さにつゝまれてゐると、いつまでもこの空間の中でぬくもつてゐたいといふ氣持になる。

 それにしてもこれら童謠の美の高さに改めて驚く他はない、理窟拔きに胸を温める玉の如き抒情と簡淨の美はどうであらう。日本人として素直に心に入つてくる美しさといふものがこゝにはある。詩も歌も、私たちは、西洋の先端の難解さを得意氣に追囘してゐる内に、足下を成金根性にさらはれて、空つぽになつてしまつた。しかし、不思議なことに、例へば、最近優れた邦畫の出現が若い世代の監督や俳優さんたちによつて相次いでゐるが、そこに流れる抒情は、これら童謠に通底する。といふより、最近三十歳前後より若い諸君の知遇に多く惠まれて、その新たな世代の純情に驚く。この童謠に流れる日本は、まだ深く生きてゐるのである。

 そして、そこからこそ、たくましく、新たな日本への囘歸が生れればと祈る時、今日の公演が、をはりに、藤村さんの優れた歌唱で大學生の伴奏によつて、震災への祈りとして捧げられたことは、深い啓示であつた。

 ケント・ナガノ氏の偉大な音樂性に敬意を表すると共に、今囘の公演實現へのただならぬ熱意に、一日本人として、心から感謝申上げたい。(この項了)