ロリン・マゼール指揮NHK交響樂團(NHKホール 平成二十四年十月十三日)1(2012年10月19日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2012年10月19日より)

チャイコフスキー組曲第3番 ト長調 作品55/グラズノフ ヴァイオリン協奏曲イ短調 作品82/スクリャービン 法悦の詩

このブログも久振りの再開となる。一年に一本といふやうなひどい状態が3年は續いたのだらうか。

愛讀して下さつてゐた方々には、本當に申し譯ないことをしたと思つてゐる。御存じの方もをられるかもしれないが、私は、先日『約束の日 安倍晉三試論』と題する政治評論を上梓した。「戰後レジームからの脱却」といふ大膽で雄大な理念政治を打ち出した安倍首相が、國民にどのやうな政治家像を提出し、どのやうに課題に挑戰し、どのやうに挫折したかの試論である。

 昭和改元の暫く後、私は、福田恆存や江藤淳といふ先人とは違ひ、偉大な文藝、思想、音樂、歴史のみに參ずる批評の道を歩むと心を決め、政治を論じる事を自ら封印してきた。いはば福田ではなく小林秀雄、河上徹太郎の道を選んだのである。しかし、さうして書齋とコンサートホールとの靜かな隱遁の生活を樂しむ間に、我が國の國情が、文字通り累卵の危きに漂流してしまつてゐる實態を知り、微力ながら報國の懷ひを禁じ得なくなつた。

 さうなつたら、私は思案などしない。まづ動くのである。つべこべ御託は竝べないのである。默々と出來る事を實行に移すのである。

 私はさうした。そして、その實行の末にたどり着いたのが、安倍晉三氏の總理再登板に日本の再生を託す以外、我が國情打開の道はないといふ結論だつた。

 結論を出した後の私は、やはり思案などしないのである。結論を形にする戰略と戰術を集中して編み出したら、ひたすら動くのである。それが結論に責任を持つことだと思つてゐる。かうして、政治的にも社會的にもゼロに等しい私が、安倍氏再登板に向けて最大のレバレッジを掛けられると信じる方法を無心に試し續けるだけの日々が續いた。

 『約束の日』の執筆は、その延長である。多くの國民が、安倍政權の實像を100%と言つていゝほど全く知らず、安倍晉三といふ政治家を誤解してゐる。何故敢へて安倍晉三なのか、を知つていたゞかねば再登板もへつたくれもないと、動きながら實感したがための執筆だつた。總裁選への電撃的な出馬に呼吸を合せたやうな刊行になつたのも、殆ど天の差配かと思はれるやうな絶妙さだつた。

 感動した、事實を初めて知つた、溜飮が下つたといふ多數の聲をいたゞく一方、提燈本だとか、内容空疎といふ人もゐるが、粗雜に讀めばさう讀めるやうに書いただけで、提燈本でも内容空疎でもないことは、著者自らが保證する。買つて讀んでいたゞいて損はないと太鼓判を押しておかう、呵々大笑。

 さて、そのやうな次第で、音樂會や音樂批評どころではなかつたわけだが、安倍氏が自民黨總裁に就任された今、時間の融通が再び利くやうになつた。

 音樂會やレコードの批評を地道に蓄積してゆくことは、文化の繼承と創造の上で大切な仕事だと信じるから、微力、非力は承知の上で、本ブログを再開させていたゞかうと思ふ。好きでたまらぬ音樂、そして、亡くなられた吉田秀和さんや師の遠山一行氏、更に河上や小林の批評世界を逍遥する三文文士に戻つて、地に足の付いた靜かな仕事を重ねられればと思つてゐる。御愛讀を乞ふ。

 マゼールの指揮は、N響から豐麗で輝かしい響きを引き出してゐた。何をおいても、今日はまづそれを聽きたかつたのだから、私は滿足だ。オーケストラの音! 今までも本ブログで繰返し書いてきたが、まづホールをきちんと鳴らせるといふこと、オーケストラを自在に歌はせ、ホールの音響空間を自在に操れることが指揮者の基本的な能力である。指揮者が、スコアの解釋者といふ知識人でなくはなく、第一義的に音樂家であるとするならば!

 そして、マゼールは、オーケストラからそのオケに見合つた「音」を出す名人だ。今日は何よりも弦がつやかかに自由に歌ふ樣に、私の昂ぶり續けた神經がほどけてゆくのが快かつた。輝かな高弦、そして和聲の土臺を作る上で存在感のあるヴィオラ、チェロパートの強さ。いゝオーケストラだ!

 プログラムは、眞の一流の作品拔きの、澁いものだ。眞に一流の、といふ基準の設定がをかしいといふ人もあるだらうが、私は藝術の標準について、二十世紀後半以降廣がつた相對主義を一切採らないので、かういふ言ひ方を許していただかなくてはならない。鐡齋が分ればゴッホが分るしゴッホが分ればバッハが分るし、バッハが分れば龍安寺の石庭が……。

 勿論、音樂にはそれ以外の樂しみも幾らでもある。ジャズバーでバーボン傾けながら聴く生演奏、朝の散歩中に校舍から聞こえてくるホルンの朝練の音、パガニーニ、オペレッタ、音楽の冗談。やぼを言ふつもりはない。私は、今日のプログラムを、充分愉しんだのである。「眞に一流」だけが人生でも藝術でもないのは言ふまでもない。

 さて、以上を書いてしまへば、今日のところは批評は凍結してしまつてもいゝかと思つたが、それでもプログラム後半のスクリャービンについてだけは、一言書いておきたい気持が残つてゐる。(この項續く)