ロリン・マゼール指揮NHK交響樂團(NHKホール 平成二十四年十月十三日)2(2012年10月20日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2012年10月20日より)

 スクリャービンと言ふと、私は個々の音樂作品より先に、ホロヴィッツが仕方噺風に語つたエピソードを思ひ出す。若きホロヴィッツが會つたスクリャービンは、神經症でぶるぶる震へながら、世界の崩壞を恐れてゐた、といふのである。神智學に夢中になり、水上で歩くキリストを眞似て、水の上を歩かうとしたといふエピソードもある。

 さういふ人が狙つた、いはば靈的なエクスタシーの、音による純粹なイメージが、この曲だ。音樂を聽くだけで、神祕體驗、神我一體の體驗が可能なやうな作品、スクリャービンは『法悦の詩』で、本氣でそれを追求したのである。

 音樂に於ける靈的なエクスタシーそのものは、そもそもクラシック音樂の源流であるグレゴリオ聖歌、そしてルネッサンス時代のジョスカン・デ・プレやパレストリーナに最高度に表現されてゐる譯だから、さういふ意味で取れば、スクリャービンの野心が異常なものだつたとは言へないだらう。バッハの、聖書と固く結ばれた宗教性や、モーツァルトの一層自由な宗教性にも、一貫して深いエクスタシーへ聽き手を導く確かな力がある。ヴァグナー、ブルックナーにも、それは、連綿と引き繼がれた。バッハでは、法悦といふ以上に、もつと倫理的に引受けられた信仰の喜びであつたエクスタシーの表現が、後者になると、はるかに官能的な一面が忍び込んでくるわけだけれど。

 しかし、ヴァグナーであつてさへ、音樂で直接的なエクスタシーの體驗を狙つた譯ではない。この天才は自分で臺本を仕上げた後は、詩人の看板を降して、今度はどこまでも緻密な音樂の論理の追求者になる。トリスタンは戀に逆上するが、ヴァグナーは戀にではなく、彼の内側から溢れる音樂の力の想像を絶する力に逆上し、堪へた。その意味で、ヴァグナーの仕事は、音樂の論理に強固なまでに則つてゐる。彼はそれ以外の動機は一切忘れて作曲に沒頭する。

 かうして、我々は『トリスタン』によつて、和聲音樂のかつてなく緻密な主題勞作を經驗するので、戀に溺れた二人の男女の濡れ場に興味を抱くのではない。その緻密な經驗の先にだけ、かつて體驗したことのないやうなエクスタシーがあり、音樂を忘れてさうした法悦の海に溺れることが出來るのである。

 その意味では、ヴァグナーが擴大した世界は、グレゴリオ聖歌から、バッハやモーツァルトを經た、ヨーロッパの文法の變容または開花だと言つてよい。トリスタンの絶望の源流をマタイの第1曲に、トリスタン和聲の源流を、平均律のフーガで執拗に繰返される半音進行に見るのは、音樂的な感銘の上でも決して奇矯な聞き方ではないはずだ。

 さて、スクリャービンの『法悦の詩』である。この曲は、かうした文法のある音樂から、音樂を神祕體驗に向かつて解放しようとした。その意味で、スクリャービンは、ワグネリズムの純化を狙つた後繼者でもあり、また、ワグナー、ドビュッシーの後の、和聲革命の一聯の潮流の一人、いはばそのさきがけでもあつたわけだらう。ピアノの書法のオーケストラへの大膽な轉用も見られる。かうした表現幅の擴大は二十世紀前半の潮流だつたが、和聲革命と神祕主義が同じプロセスのコインの兩面になつたのが、スクリャービンの特異性だつた。

 だが、實際の音樂は、聽き手に、彼が狙つたほどの法悦を齎すものにはならなかつた。それはコンサートレパートリーとしてこの曲が與へられた地位に何よりもよく表れてゐる。
何故か。

 聽き手は、最後まで、音樂の特異な展開に注意力を釘付けにされて、かへつて音樂による法悦の體驗が妨げられてしまふからだ。バッハやヴァグナーの「文法」は、聽き手を解放するが、スクリャービンの和聲的「自由」は、聽き手をかへつて音樂そのものに拘束してしまふ。これこそは、20世紀前半のクラシック音樂全體を覆つた表現領域擴大の、典型的なパラドクスだらう。

 ではかうした、和聲を中心とした音樂上の實驗の數々は無意味だつたのか。さうは言へない。ヴァグナーの後に、誰ももう一度『指環』を聽きたいとは思はない。20世紀初頭のベルリンやパリでバッハのコラールが改めて生み出されることは、寧ろグロテスクである。

 だが、それにもかゝはらず、西洋音樂史はどこかで大きく道を誤つたのである。あるいは一度行き詰らずにはいられなかつたのである。行き着く所まで行き着いた和聲の實驗は、コペルニクス的轉換を必要としてゐるはずだ。あるいは、戻るべき地點がある、と言ふべきかもしれない。それはシュトラウスやストラヴィンスキーの40代以降の衰弱と、ドビュッシー、マーラー晩年の仕事が祕めてゐる大きな可能性の落差だ。古風な日本語を使へば音樂家としての節操の問題であり、別の言ひ方をすれば音樂によつて語らうとする、作曲家が内心で見てゐる夢の深さの問題だ。

 まあ、そんな話はまた別の機會にゆつくり考へてみるとしよう。

 演奏會に戻る。

 マゼールがN響から引き出した銀のやうな木管の響きの纖細さから、パレットを全部ぶちまけたやうな壯大なフォルティッシモの海まで、20分間溺れるには充分。これだけ華麗な音のご馳走なら、神祕體驗にはならずとも、いつまでもをはらないで欲しいと思つたのが正直なところだ。

 ホールを聾するオケの咆哮を聽きながら、確かに私が出會つたのは、法悦に浸る神祕家の精神ではなく、極度に研ぎ澄まされた神經と聽覺に喘ぐ音樂家の魂だつたやうである。(この項了)