聖なる奇跡、再び――ティーレマンのブルックナー(2)(2012年11月02日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2012年11月02日より)

ヴァグナー:トリスタンとイゾルデ「前奏曲と愛の死」/ブルックナー交響曲第7番ホ長調
クリスティアン・ティーレマン指揮 ドレスデンシュターツカペレ(10月26日サントリーホール)

 1樂章は、ソナタ形式といふよりも、3つの主題が、なだらかに生起し、自由に交歡しながら3度繼續される、と言つた方がいゝやうな音樂。ティーレマンはゆつたりと構へながら、この生起から生じる歌と波瀾とを、無限に優しい眼差しで見守つてゐる。第2主題の泣きたくなるやうな稚いリリシズム、第3主題の孤獨な散策の足取りから、時に高まるトゥッティも、とにかく優しいのである。

 そして、オーケストラの響き! 前囘ティーレマンとドレスデンの相性に就て、疑問符を付けたが、一週間足らずで撤囘させていたゞく他はない。高弦のプラチナの輝き、光の絲を放つやうな燦めき、低弦は深々と、しかし威壓的でない包容力で音樂のベースを守る。木管も今日は實に強い表現力を示してゐる。そして金管! このやはらかい壯大さは何だらう。合奏としての強さと味はひの濃さ。音色が絡み合ふ萬華鏡のやうな搖らぎ。もうその鳴り響きを聽いてゐるだけで滿足といふ美しさである。ティンパニの轟きも、合奏の中に融け込んでゐる。

 トゥッティの美しさは、信じ難いほどだ。アルプスの山竝が、青空の中に現出する、壯大な幻覺のやう。

 1樂章末尾はやゝ控へ目な印象だが、これは普通どうしても輕くなつてしまふフィナーレコーダを、最大限巨大なものにする爲のバランスであることは、後で明らかになる。

 2樂章は、音樂的にも演奏の緊張の高さでも、今日のクライマックスだつた。バレンボイムの前囘來日時の演奏が、この2樂章に非常に深い陰影を與へてゐたが、ティーレマンのは、寧ろ、こゝでもさうした表出としての深刻な味はひではなく、やはり、ひたすら無心に美しい。ひたすら優しい。4小節のマルカートに悲劇の剛毅さをうち出す以上に、7小節のディミヌエンドに限りない優しさの涙が光る。音樂はどんな瞬間も、無心に歌はれ、無心に深い。

 あのワルツ主題の美しさには、最早、どんな地上の言葉も似つかはしくないといふ氣がする。樂章後半のブルックナークレッシェンドと大クライマックスも、あんなに大きな音樂が、あんなにやはらかく響くのを私は初めて聽いた。最近DVDにもなつたチェリビダッケ指揮、ミュンヘンフィルの來日公演の時は、こゝで、音響がサントリーホールの許容を完全に超えてしまひ、感動よりも音に疲れてしまつたことを、今思ひ出す。同じ時のブルックナーの第8交響曲、こちらは、響きのコントロールも、限界的な精神の糾問としての音樂の内容も、比類を絶した經驗だつたのだが。

 さうした比較は別にして、とにかく私は、こんなに歌ふフォルティッシモといふものを聽いたことがない。この繰返されるトゥッティの間、音樂は、音響の伽藍ではなく、ひたひたと波打ちながら、優しくやはらかく歌つてゐるのである! そしてその歌は、絶えず沈默の中から生まれるやうな靜けさへと、寧ろ聽き手をその沈默へと吸ひ込むやうである。

 その後、ヴァグナーへの哀悼の音樂が厳かに奏され、あの靜謐な祈りに戻つてゆくコーダを語ることは、もう殆ど神について語ることに近いだらう。

 かうした絶美と限界的な音樂への沒入の後、第3樂章は、ユーモラスな慰謝だ。この樂章がこんなに待ち遠しく響いたのは、私には初めてだ。輕快だが柄は大きい。大きいが、味はひはこまやかだ。一つ一つの音型や樂器バランスが、オケの自發性によつて生まれるからであらう。とにかく音樂が生きてゐる。そして、スケルツォのトリオでのティーレマンの歌が凄いのである。頑是ない子供の無垢と叡智――懷かしさの感傷に包まれて、胸は一杯だ。

 フィナーレ。本來かなり輕いこの音樂をどう扱ふか、カラヤンまでの世代が餘り作爲なく流してゐるのに對して、チェリビダッケの巨大化、バレンボイムのドイツ風フモールの限りを盡くしたチャーミングな音樂作りが、最近の大きな解釋上の成果であらうか。ティーレマンは輕快に始めるが、氣が付いた時には、途轍もない巨峰を麓から見上げるやうな大きさで曲尾を飾るといふ、一種の魔法めいた音樂作りに成功してゐた。

 1樂章冒頭主題のヴァリエーションである第1主題は羽毛のやうに輕い。コラール風の第3主題の冥想は深い。兩者が融け合ひながら音樂は徐々に巨大な相貌に變じてゆく。テンポ變化はバレンボイムに一番近いが、後半練習番號U、247小節からのリタルランドとア テンポを繰返す場面を通じて、バレンボイムとは違つて、徐々に腰を落としてゆく。これで音樂が巨大な印象を獲得するのである。そして、コーダ直前、全奏で、主題をそれぞれに變型して奏するところのリズムや音色の絡み合ひの、無類の面白さに夢中になつてゐると、ラングサムがホール一杯に廣がる。大河が大洋に出る瞬間のやう。その豐かな殘響の中から、懷かしいホルンが、コーダを導き出す。

 巨浪のやうなクレッシェンドの果てに、1樂章の第1主題が再歸し、ホール全體はさながら雄大な音宇宙。私は、終止の、ゆつたりと引き延ばされたオルガンサウンドが、黄昏の微光のやうにホールを染め上げ、黄金色の殘響が深い沈默に返つてゆくのを、たゞ茫然と眺めてゐた、やがて妻になる人と深く寄り添ひながら。

 區切られた聖なる時間――。

 それにしても、我々は、なぜ、俗世になぜ戻らねばならないのであらうか、こゝにこそ人生の眞理があるならば! これが現代社會の一遇を占める音樂興業といふ名の兒戲ではなく、人生の確かな響きのありやうそのものだとしたら! ブルックナーが孤獨で苦しい生涯から發見したこの音樂世界の確からしさに匹敵する何を人類は他に見出し得たといふのだらう。がらくたのやうな英雄の夢、がらくたのやうな富、がらくたのやうな性愛、がらくたのやうな哲學、がらくたのやうな文明、がらくたのやうな合理化、近代といふ名の全がらくた………

 神に,そして神の創造物たる自然をこれ程美しく歌ひあげたブルックナーに感謝する。そしてブルックナーの第7交響曲のこれほどの聖性を、初めて教へてくれたティーレマンに深い敬愛の念を。(この項了)