#1 『ジュリアス・シーザー』

ウィリアム・シェイクスピア(著)、福田恆存(訳)
新潮社; 改版 (1968/3/27)

 シェイクスピアは面白い、それも抜群に。何しろ、シェイクスピアが赤裸々に描くヨーロッパ人の生態はまことにえげつない。その上、さうしたえげつなさに彼が与へた言葉の翼は、余りにも見事なのである。要するにエリザベス朝時代のイギリスにはかういふ人間群像、かういふ言葉の力が日常に漲つてゐたといふ事だ、萬葉が、我々の古代人の人間性や言葉の力を率直に全て明らかにしてしまつてゐるやうに。そして、未だに世界秩序を裁量してゐる白人たちは間違ひなくその末裔であつて、シェイクスピアの登場人物に流れてゐる血が、彼らの体内にも流れてゐる、その人間的な圧力や暴力、言葉の圧倒的な奔出を、体で知るやうに読む事――世界秩序の流動化が始まつた今、単に「結構な御趣味」としての読書ではなく、世界を見据ゑた「日本人」として生きてゆく上でもシェイクスピアは必読だ。

 注意するがいい、シェイクスピア劇にはロマン的恋愛劇はロミオ以外にはなく、その殆どが政治劇であつて、萬葉以来文学が「恋」を中心に展開してきた日本の文學世界とはそもそも関心の向きが全く違ふといふ事に。

 実際、イギリス、アメリカの高等教育で最もよく使はれるテキストはシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」だ。シーザーの暗殺と、プルータスへの市民の歓迎を一場の演説で覆すアントニーの雄弁にクライマックスを持つ、剣の力とそれを上回る言葉の力を描いたこの劇こそが、英米のエリートたちの青春の教材である事の意味を考へてみるがいい。それをシェイクスピアの科白の奔流で学ぶ彼らにとつて、権力を簒奪する力としての剣と言葉とが、どれ程確かに信じられるものである事か。アントニーの短い演説によつてローマ市民がシーザー憎しから瞬時にシーザーを悼み、ブルータスを謀反人として非難し始める場面を、その後の政治家達がどのやうに模倣しようと努めてきたか。その俗悪な末流が今のアメリカ大統領選での討論会である事は指摘するまでもないだらう。

 といふ訳でシェイクスピアを読む最初にその「ジュリアス・シーザー」を御勧めしておかう。シェイクスピアを日本語で読むなら、やはり日本語の舞台上演の悪戦苦闘から生み出された福田恆存訳で。