ニューヨーク日記9日目 平成29年1月27日

 (今日のは同志諸君だけは通読してね。)
 ニューヨーク日記と題してはゐるが、ニューヨークでブルックナーを聴いてゐるだけの話で、New YorkともAmericaとも殆ど関係ない日記が続き恐縮だ。時間の許す限り、ホテルに籠つて古今集と源氏を読んでゐるといふのだから紀行文らしい最低限の体裁さへない。別に奇を衒つてゐるのではなく、日本で勉強ができない事情が幾つも重なり仕方なくかうなつてゐるだけの事なのだが。

 昨日はカメラを持つて街に出て、幾枚か街の写真をとつたが、部屋に帰つて確認したらパソコンに接続する部品が見当らない。平から次回の虎の門ニュースで使ふから写真を撮つて来いと言はれカメラを持たされたのだが、自分のFBで写真を掲載する能力さへ私にはないと見做され、カメラしか持たされなかつたといふ事らしい。そこで、ニューヨーク日記と題しながら、話題はブルックナーと古今や源氏といふ異様な文章が毎日続く。かうなると本当にニューヨークに私がゐるかどうかも疑はしいといふ事になりかねない。

 が、私は、確かにニューヨークにゐるのである。そして、音楽と古典に沈潜しながら、毎日二度ばかり街に出て、helloとthank youとpleaseばかりでやり繰りしながら、実はそこで「世界」を感じてゐるのである。

 そして改めて思ふのだ、「日本」を本当に守らねばならない。今までも、口先野郎八百匹の中で、人目に触れぬ所で日本を守る仕事は重ねてきた。が、これからはゼロの桁を三つ以上増やして、全く違ふ次元で――「現政権下での日本の守り」から「日本民族の真の守り」へと――仕事を上げてゆく。私の文學とはさういふものである。私が最も私自身に徹した時、最も大きな仕事ができる。以上、訳の分らない事を書いて恐縮だが、虚言と読み飛ばしてもらつていい。ただし分る人がもし一人でもゐれば――黙つて私に人生を投じよ、言葉は要らない。もし一人もゐなければ一人でできる戦ひだけを私は戦ふ。どちらでもいいのだ。誰一人にも無理強いもお願ひもするつもりはない、私は自分の命を本当に活かしきりたい。ただそれだけ。

 でもまあさういふ鯱張つた話はいいや、私が本当にニューヨークにゐる証拠を書いておかう。

 昼飯の失敗である。この間ステーキを食つた店でハンバーグを食はうと思つて、今日、間違つてハンバーガーを注文してしまつたのだ。ディナーの値段から見てそれなりの高級店だと思ふが、先日のアメリカ風のステーキの味の良さからは考へられない草履のやうな見てくれ且つ食へば大味なburgerが出されて閉口した。friedpotatoが山盛りになつて出て来たのには特に参つた。単に物量の問題ではない、日々物量によつて培はれる感受性の違ひがここにはある。

 日本は食物が美味すぎる。こんな美味いものを作れる民族が近代戦争に――それが経済であつてさへも――強い筈はない。ガサツな破壊を何とも思はないといふ前提がないと、これ以後世界と伍してゆくのは益々難しくならう。

 超克するには、恐らく、江戸の教育、徹底した読書と武道を幼少期から体に叩き込む鍛錬しかないのではないか。実際19世紀の荒波を乗り越えた民族力がそれを証明してゐるのだ。それがどうしても現実の教育行政で実現不可能だといふのなら、逆手をゆくしかない、子供の時から草履のやうなburgerとfriedpotatoを山盛り食はせて日本人らしい繊細さを民族全体で自ら殺す事。はつきりいふ、他に道はない。感受性の繊細さを乗り越えるのはどんな政策論にも不可能だ。

 さて、今日から愈々ブルックナー後期。その初日の7番は9曲で唯一売り切れの看板が出てゐ、中継もあるとの事だ。演奏の気合も入るだらう。東京では日程がタイトで7番は金管の疲労がひどく、熱演ではあつたが演奏は荒れてゐた。今日はさういふ事はまづなからう。楽しみである。