ニューヨーク日記10日目(2) 平成29年1月28日

 既報の通り、『Hanada』三月号に「電通十則 何が悪い」を寄稿した。常識論、人間論であつて社会政策論ではない。日本の保守は、常識論・人間論の厚みを取り戻さないと、保守すべき価値を見失ひ、ナショナリズムとリアリズム(イデアリズムなきリアリズムはそれ自体幻想に過ぎない)の波間を漂流する事になると考へる。人間観を深めない所に保守はない。論壇の現状に危惧を強めてゐる。

 次に示すのは拙稿の一節。

 全編を通読した方の活発な議論や感想があれば今後の私の投稿へのコメントとして頂戴できれば幸ひだ。きちんとした御批判は歓迎するが、まるで読めてゐない方からの誹謗や、明らかな誤解による批判にはとりあはないのでご了解を。

 「……さうした不条理の網の目は日本社会の至る所にある。勿論、マスコミと人権派弁護士が労働者の人権を盾に騒いでは現場が面倒な立場に追ひ込まれるといふ種類の不条理だけに留まらない。不条理はアメリカの外圧から来るかもしれず、現場を知らない関係省庁による思ひつきの通達の強制力であるかも知れない。モンスター化した消費者による圧力に会社が屈して生じる不条理もあらう。小さな事を言へば、愚劣な上司から来る不条理もあれば、逆に出来の悪い部下に由来する不条理もあるであらう。

 その場合、誰が、それを告発し、不条理を跳ね返す為に戦つてくれるのか。

 誰もしてはくれまい。が、それでも、日本人は働くのである。

 少なくとも江戸時代以来、日本の労働文化は、「多く働き多く豊かになる」といふ社会的な合意として成熟してきた。様々な理不尽に社会全体で耐へて、その代はりに社会全体の豊かさを手に入れてきたのが江戸から連綿と続く日本近代の「資本主義の精神」なのだと言つてもいい。……」

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 間もなくブルックナーチクルス8夜、愈々ブルックナーの最高傑作2曲へ。今日は8番。今、簡単にスコアのお浚ひを終へた。改めていふまでもない平凡な感想だらうが、3楽章のアダージョは最早人間感情を超越してゐる。7番までとは全く違ふ精神世界に達してゐる。4楽章も実に不思議な音楽である。スコアを見てゐるだけではこの壮大さ、精神的な特別な高さが見えてこない。展開と言つても、譜面面はまあ同じやうにクライマックスに向けて何度も似たやうなvariationを繰り返してゐるやうにしか見えない。ところがこれを名演奏で聴くと他では全く経験できない深遠な音楽になる。

 ……この神への跳躍――ニーチェの超人思想と最も縁遠い所にゐるブルックナーが、しかし誰よりも神そのものの響きを生み出したのは何故か?――バレンボイムのブルックナーへのアプローチはチェリビダッケやティーレマンの神聖性への志向と異なり、明らかに極めて人間的である。フルトヴェングラーのやうな神秘的な霊妙さもない。音楽する健康な喜びに溢れてゐる。

 8番でのバレンボイムがどこまで説得的か、今までの私にはそれは充分説得的ではなかつた。今晩に期待したい。