ニューヨーク日記10日目(3) 平成29年1月28日

 ブルックナーの8番の夕べから真直ぐホテルに帰り、日本風のソーセージを齧つてビールを飲みながらこれを書いてゐる。本当はチーズ入りが好きだが、異国でああいふ珍味までは期待できない。日本人としては若干違和感の残る味だが、ビールの当てとしては許容範囲。

 終演後の喝采は怒号のやうな凄まじさだつた。

 演奏の集中力は抜群で、私の体験したバレンボイムの8番としては―ーCDやDVDも含めて――最高の演奏だらう。気合は昨年のサントリーや数年前のベルリンライヴ以上。

 が、残念な事に私は感動しなかつた。

 音楽にはさういふ事があつて、これ以上ない演奏なのに感動しなかつたり、さうでもないのに涙を絞らされるといふ事もある。

 が、8番でのバレンボイムは出来不出来やコンディションの問題でなく、曲の理解の上で、私には違和感があるやうだ。今日はベストパフォーマンスだつたからそれがはつきり分つたやうに思ふ。
少しだけ仔細を書いておきたい。

 彼の7番までのブルックナー演奏は非常にチャーミングだ。サウンドは超重量級だが、色彩、リズム、一寸した遊びの頻出など、絶えず音楽する愉悦がある。ところが8番になるとそれがなくなるのである。非常に立派だが、全てを全体の流れに溶かし込んでしまひ、7番までの、あの愉悦感がなくなるのである。

 意図してのことにちがひあるまい。

 スケルツォが分り易い。他の曲ではどんな指揮者よりも楽器ごとの色彩の違ひを出し、ニュアンスに遊ぶ彼なのに、8番では金管群それぞれの色彩の違ひを抑へ、柔らかい全体色の中にわざわざ埋没させる。レコードでは、シューリヒト=ウィーンフィルやカラヤン=ウィーンフィルが示してゐるやうな感覚的な快感がすつかり消えてしまふ。7番までの彼なら――彼らより重厚だが――基本的にはさういふアプローチになつたらう、あそこでオーボエが前に出て、ここではホルンが強烈な音と誇張されたリズム感で前に出る、クライマックスでティンパニが酔つたやうに強打しながら音楽は轟音を立てて力動する、そしてトリオでは空気の色が変る程センチメンタルに歌ふ、といふ風に。

 ……ところが8番のスケルツォに限つて彼はさうしない。

 が、例へばチェリビダッケのやうに極限まで音楽を大きくするわけではない。

 どこか不徹底なのである。

 アダージョもさう。非常に遅いテンポで始まり、完璧な名演が続くのだが、第4部、第5部といふ曲の後半、繰返しクライマックスに駆け上る箇所になると、バレンボイムはテンポを上げてしまふ。フルトヴェングラーのやうに異常な加速をする訳ではない。が、折角、徹底的に遅いテンポで主題を吟味し、歌ひ、沈潜してゐたのに、なぜfffへ向けての全奏でノーマルテンポにしてしまふのだらう。

 4楽章はテンポ設定がノーマルなのだから、猶更、いつものチャーミング路線であらゆる音楽的な興味を刺激して欲しい所である。ところが、立派ではあるのだが、耳をそばだてさせる新鮮な響きもなければ、ダイナミズムの極端な拡大もない。

 6番の1楽章のコーダならば全奏の中からティンパニが動機となるリズムを皮が破れるかといふ強烈な打音で打ち鳴らして私をのけぞらせてくれる。5番のフィナーレなら、フーガの主題をクラリネットが出す一節だけで聴き手を猛烈に引き付け、あとはひきずられつぱなしで圧倒的なコーダに持ち込む。7番のスケルツォは昨日書いた。他、ここもあそこもさういふ音楽的な発見と喜びがいつもあるのがバレンボイムのブルックナー。

 ところが、8番に限つて、シューリヒトのやうなチャーム路線、フルトヴェングラーのやうな異常なテンポ変化と呪術のやうな楽曲理解、チェリビダッケやティーレマンらによる声楽なしの受難曲のやうな神聖化、さういふ性格の明確さがない。

 重厚でありながらチャーミングで、音楽の大きな流れを明快に示しながら極めてアグレッシヴ、何よりも音楽する喜びに沸き立つやうなバレンボイムのブルックナーが、ここにきて、立派だけどcoldnessなものになつてしまふ。

 8番に大きな影響を与へたと想像される〈指環〉や〈トリスタン〉のバレンボイムは歴史的な大指揮者である。8番の世界が理解できない筈がないと思ふのだが、バレンボイムの七不思議といふ事なのだらうか(別に他に6つの不思議がある訳はない、調子に乗つて書いただけ(笑))。