#3『ハムレット』

ウィリアム・シェイクスピア(著)、福田恆存(訳)
新潮社; 改版(1974/1/30)

シェイクスピアの四大悲劇といふ通称をどこまで真に受けるかといふ事が最初にある。推定制作年代順に、『ハムレット』『オセロー』『リア王』『マクベス』の四作がそれに該当するが、シェイクスピアの悲劇はこれだけではない。ローマに取材した作品が、これらに較べて劣つてゐる訳でもなく、更に、イギリス史に材をとつた史劇にも悲劇は幾つかある。が、この100選では四大悲劇は纏めて読む事にする。当時のイギリス人に馴染みだつたローマ史やイギリス史に材を借りず、主人公名をタイトルにとつた作品は、この四作だけであり、実際に、歴史劇が歴史そのものを主人公としてゐるのに比べると、これらは明らかに主人公の運命そのものを問題にしてゐると言へるからだ。必ずしも全てがシェイクスピア作品中で最高傑作といふ訳ではない。それだけに、読者それぞれが四作を通読して、各自判定する楽しみがあるだらう。私の考へでは……いや、私の判定を述べるのは四作品を語つた後にしよう。

 まづ『ハムレット』である。

 何といふ明るさ、何といふ広やかさ、何といふ自由だらうか、『ハムレット』を通読すると、私はいつもまづ、それに酔う。

 既に冒頭、深夜の城壁上での見張りたちのやり取りに、他のシェイクスピア劇にさへ例のないたつぷりとした厚みがある。言ふまでもなくハムレットの父、前デンマーク王の亡霊出現の場面だが、ここが既に単なる怪異譚では全くないのだ。亡霊の出現は三人の人間が再三確認した上でハムレットに報告したのだから「事実」であつてハムレットの内面の投影などではない。ハムレットはマクベスやリアと違ひ、中世的な人物では全くない。新時代の青年だ。亡霊は理性の時代への挑発として確かに「出現」し、従臣らは、王の死と戦争の予兆の中で、これを国家の危機と受け取る。

 ハムレットが単なる家庭劇ではなく、国家劇として始まり、終る事、これはこの劇の壮大さを感得する上で、最も見落としてはならぬ事だ。

 実際、深夜の城壁のプロローグが終ると、芝居は戴冠式後の祝宴で幕を開ける。

 新王クローディアス――前王の弟にしてハムレットの叔父――の戴冠式後の宮殿だ。前王の葬儀が終り二月しか経たぬうちの、華やかな即位と、前王の妻――ハムレットの母――との再婚の報告が行はれる。喪と新婚、崩御と即位、それも弟として兄の死を悼み、悼みながらその王冠を継ぎ、しかも兄の妻を自分の妻とするといふ甚だしいアンビバレンツ、そこに一人だけ喪服で現れるハムレット……。

 一方次の場面では、老大臣ポローニアス一家が登場する。闊達な息子レアティーズ、可憐で聡明な娘オフィーリアと老父の、むつまじい家庭図が描かれる。

 父と王冠と母を同時に失つたハムレット王子の不幸との、明らかな対照だが、この対照を破壊する形で劇は進行する。

 まづは、ハムレットが、父の亡霊に出会ひ、叔父への復讐の為に狂気を装ふ。

 一方、喜劇的とは言へあくまで賢明な老臣、老父として登場したポローニアスが、急激に滑稽化され、道化の役割を演じ始める。

 そこに登場するのが旅の役者たちである。

 道化と狂人と役者……。

 厳粛な国家の物語、簒奪された王冠と憂悶の王子の物語が、二幕で、道化と狂人の化かしあひに転じ、そこに劇中劇さへ挿入される事で、演劇空間は一気に多義化し、深刻さと冗談とが瞬時に交差する事で、非日常化されてゆく。

 その非日常的な空間の中で、叔父の姦計を見破らうとするハムレットと、狂気を装ふハムレットの底意を見破つたクローディアスによる、謀略合戦が始まる。

 その謀略合戦の中、クローディアスがハムレットの仕掛けた芝居中に突然取り乱し、自分の犯した罪を露呈する瞬間までがハムレット劇の前半である。

 優柔不断な悩めるハムレット――これはゲーテによる最大の文学史的迷妄だらう。なるほど、ハムレットは自らの薄志弱行を鞭打つ独白を何度となく吐く。が、彼は嘆いてゐるのではなく、自らを鼓舞してゐるのだ。行動に遅滞はなく、彼に迷ひはない。劇の展開が緩やかに見えるのは、各場面に込められた言葉や人間像が濃密だからで、彼が逡巡してゐるからではない。

 では、父殺しの真相に到達した後、劇後半のハムレットは、ためらつてばかりで前に進めぬ青白き王子になるのか。

 それも全然違ふのである。

 後半冒頭、母への強烈な改悛の勧めの場で、ポローニアスをクローディアスと誤つて殺した挙句、ハムレットは即座にイギリスに謀殺目的で送られてしまふ。ハムレットは舞台から消え、当然ながら復讐の機会はなくなる。

 その間、オフィーリアが発狂し、レアティーズが父の復讐の為に半狂乱となる。王の姦計を脱してやうやく帰国したハムレットが、偶然オフィーリアの葬送に行き合ひ、彼女の墓場でレアティーズと対決する場面で、ハムレットは舞台に帰還する。

 ところがどうだらう、イギリスから戻つたハムレットは、高貴な達観の若者になつてゐるではないか。憂悶、佯狂、激怒の消えたこの青年王子が、帰国後、どう復讐を遂げるつもりだつたか――残念ながらそれは分らない。ハムレットが復讐の刃を改めて研ぐ前に、クローディアスが謀つたレアティーズとハムレットの剣戟の仕合で、関係者全員が惨死してしまふからだ。

 剣の毒は最初ハムレットに、次にレアイティーズに瀕死の重傷を負はせ、毒杯は王妃を死に飲み込み、最後に瀕死のハムレットが、クローディアスにそれを無理やり飲み干させ、彼を殺す。
復讐は確かに完成した。

 が、ここで完成したのは復讐だらうか。

 浄化はこれらの死によつて齎されたのではない。ハムレットは既に諦念の人として最期の場面に臨んでゐたからだ。復讐心と自己葛藤の強烈なエネルギーは、芝居中盤、叔父の犯罪を暴露し、母を責めた時に、急激に消滅したかのやうだ。その段階で叔父は既に精神的には劣位に置かれ、最早ハムレットの情念や自己葛藤に値しなくなつてゐる。一方、帰国した彼が直面したのは、オフィーリアの狂死と兄レアティーズへの負目だつた。ハムレットの義を守るには、オフィーリアとレアティーズへの負債を返さねばならない。

 その意味で最終幕の彼は既に主体的な復讐者ではあり得ない。罪の帳尻は全員で合はせねばならない。運命そのものが裁き手であつて、ハムレットは自らをもその手に委ねたのである。

 死に際してのハムレットは、王家の血の絶えた後のデンマークをノールウェイ王子フォーティンブラスに託し、自分の物語を後世に伝へる事は、親友ホレイショーに託す。秩序は、主人公の死の後に回復するのでなく、主人公自身が世界を秩序づけ、自らの生涯を位置付けてから死ぬ。瀕死のハムレットの諦念は、高貴で明るい。

 これは悲劇としてユニークな特質だらう。

 その上、ハムレットの人間像は、自由闊達で歪みのない鮮度と現代性を全く失つてゐない。

 この豊かさ、明るさ、自由さ、現代性――劇作品『ハムレット』も青年ハムレットも、古典的名作の中でもひときは輝く世界史上の奇跡と言つていい、私はさう思ふ。