#4『オセロー』

ウィリアム・シェイクスピア(著)、福田恆存(訳)
新潮社; 改版 (1951/8/1)

オセローは面白いか。

抜群に面白い、読んでも、観ても。

オセローは愚か過ぎるのではないか、なぜ、こんなに容易にイアーゴーに騙され、デスデモーナの不倫を信じてしまふのか――この、戯曲『オセロー』に必ずのやうについて回る問ひは意味がない。

不注意に読めば、或いは下手な芝居で観たら、さういふ疑問も生じよう。が、きちんと読めば、この悲劇自体が、嫉妬といふどうしようもない暗い激情、そののつぴきならぬ自問自答の激痛を描きたかつたのであつて、作者は芝居書きとして、その道だけを真直ぐ突き進んだだけだとしか読めない。

イアーゴーによる姦計の手間をより沢山取つて、誰の目にもデスデモーナの不倫を疑へないやうに筋書を書き増す事など、シェイクスピアならずとも朝飯前であらう。が、だからどうだと言ふのか。嫉妬に至る心理的な過程を合理的に描けば描くだけ、嫉妬そのものの激痛の不条理は弱まつてしまふだけではないか。

オセローが愚かに見えるのは、我々が今この瞬間、自身嫉妬の激痛に身を焼かれてゐないからに過ぎない。芝居の筋立てを整へてオセローが騙されて当然だといふ話になれば、嫉妬は合理化される。合理的な嫉妬の結果妻を殺した、これでは悲劇にならぬ。人間が自分の意志では留めやうもない情念の力動は消え失せ、オセローは誰が見ても当然の心理的理路を通つて嫉妬するに至つた、尤もな話ではないか。――さう、これは尤もな話に過ぎず、従つて悲劇ではないのである。

気を付けねばならない、ヴェルディがこの戯曲を元に作曲した〈オテロ〉には。

なるほど文学の傑作から翻案されたオペラとしては、ヴェルディ自身の〈フォルスタッフ〉と並び、〈オテロ〉は最高傑作の一つである。が、ヴェルディ版〈オテロ〉には大きな陥穽があるのだ、イアーゴーといふ稀代の悪役といふ陥穽が。オペラで〈オテロ〉を聴く醍醐味の一つはイアーゴーの悪辣振りをバリトンがどう声と演戯で表現するかにあるだらう。あへて極論すれば、オテロとデスデモーナに期待されてゐるのは美声だけであつて、オペラとしての表現の振り幅は専らイアーゴーに託されてゐるとさへ言つていい。歴代の名歌手がイアーゴーの悪辣さをどれ程徹底的に表現してきたかは、多くのレコードが証明してゐる通りだ。

が、シェイクスピアのイアーゴーは悪辣で陰険な中年男ではないのである。

シェイクスピアが下敷きにしたのは1566年にヴェニスで刊行されたツィンツィオの『百物語』の中の一編だが、そこでイアーゴーは次のやうに書かれてゐる。

ムーアの部下に、美男ではあるが非常に腹黒い旗手がゐた。

イアーゴーは若い美男であつて、シェイクスピアも基本的にそのキャラクターに変更を加へてはゐない。それは妻のエミリアを見れば明らかであつて、これ又オペラで勘違ひしがちなデスデモーナの乳母などではなく、瑞々しい若女房である。

その上、イアーゴーの人柄は、誠実そのものに見えた。

この戯曲を読み進めて驚くのはイアーゴーの誠実さが異様に強調されてゐる事である。

オセロー では、旗手を残しておきませう。信頼の出来る誠実な男でございます。(新潮文庫35頁1-3-3)

オセロー イヤーゴ―なら、誠実な男だ、安心できる。(58頁2-3-6)

オセロー もうよい、イアーゴー、いつもながらの誠実と思ひやり……(69頁2-3-6)

エミリア 主人もわがことのように思ひ煩つてをりました。

デスデモーナ さうでせうね、誠実な人だから。(81頁 3-3-9)

オセロー お前の真心、誠実、軽々に言葉を弄ばぬ重厚な性格、それだけにお前の口ごもるやうな度々の言ひさしがおれの心を騒がせるのだ。(86頁3-3-9)

若くて美男で誠実なイアーゴーが、正に誠実な男、誠実な部下らしく、躊躇に躊躇を重ねながら、キャシオ―とデスデモーナの不倫といふ毒を、しづしづとオセローの耳に流し込む。

しかもイアーゴーは歴戦をオセローの下で戦つてきた勇士である。

オセローは、子供の頃から人生の大半を戦場で過ごした男だ。戦争を知り、戦友は知つてゐても、世間の事はろくに知らず、女も知らない。

最近知り合つた百合のやうに清純なデスデモーナを彼は見かけ通りに見、その純愛とその性質の純良とを信じきつた。

それは最早中年を過ぎようといふ軍人が知つた初めての女の純愛であり、女の匂ふやうな姿である。彼が信じ込み、愛に自己を託した重量は、それまでの軍人としての全人生の重量そのものだつた。

そこにイアーゴーの毒が注がれる。

長年の部下であり死生を共にした戦友、若くて美男で誠実なイアーゴーによる毒が。

彼はどちらを信じるか。

いや、それが読者よ、あなたなら?

オセローを愚かだと思へる読者は幸ひだ。

本当に愛しきつてしまつた相手の誠実を、どうしても疑ひ得ない所まで追ひ込まれた事がない読者は幸ひだ。

世慣れた男の浮気に苦しむ女ではない。

清純そのものに見える若い妻の、猥らな肉欲生活をイアーゴーは赤裸々に語るのである。

毒が効くに至る過程を問題にしても意味がない。

毒は既に充分に効いてゐるといふ所からがこの劇の本領だからである。効いてしまつた嫉妬の毒の苦痛を乗り越えられる人間はゐない。それは彼の愛の必然的な一部であつて、それを超えたとしたら、その時彼は同時に愛をも捨てた事になるに違ひない。

シェイクスピアは、初期、中期、後期と作風が劇的に変貌する。初期には歴史劇と喜劇が集中し、いはゆるシェイクスピアらしい悲劇は全て中期のみに書かれてゐる。1599年の『ジュリアス・シーザー』にそれは始まり、『マクベス』まで続く。初期の恋愛喜劇からは想像の付かない暗い情念と人間の悲惨を抉るそれらの作品に、シェイクスピア自身が受けた心の打撃を見る議論も多い。もしさうだとすればこの『オセロー』こそはそれを最も暗示する作品であらう。
デスデモーナ 本当かしら、教へて、エミリア――夫をだまして、ひどい恥をかかせる女がゐるといふけれど?

エミリア をりますとも、もちろん。

デスデモーナ あなたはどう、世界中全部やると言はれたら、さうする気?

エミリア あら、奥様なら、厭だとおつしやいます?

デスデモーナ 勿論、厭です。あのお月様に誓つて。

エミリア それは、お月様の前では、私だつて遠慮申し上げます、闇夜のときに結構やれますもの。

(略)

デスデモーナ あなたなら、いざとなれば、しないと思ひます。

エミリア 私なら、いざとなれば、やつてのけられる思ひます。

ただし、めつたなことではやりませんよ。

指輪や着物やお金では転ばない、世界中と引き換へでなければ浮気などしないといふのである。

オセローは騙され嫉妬に狂ひ、イヤーゴ―は誠実に見せかけて、姦計でオセローを破滅させる。その若妻たちの、夫を信じ切つた上での幕切れ近くのこの会話は、余りにも悲しい。この作品で程、男が根底的な意味で女を裏切る芝居を、シェイクスピアは他に書いてゐないのではないか。『ハムレット』の根底に、母の息子への裏切りがあるのと対照的である。

対照的と言へば、それだけではなく、『オセロー』はシェイクスピアには珍しくほぼ完全にホームドラマである。オセローは提督だが、ここには彼の悲劇を構造的なものにする「国家」といふ主題は全くない。又、リア王の宇宙感覚も、ハムレットの霊的な世界と現世の往還も、マクベスにかかる中世の霧もない。

だが、繰り返す、『オセロー』は抜群に面白い。神話、中世、壮大な宇宙的な悲劇と並んでこの家庭劇が充分に伍してゐるのも又、シェイクスピアの作家としての器の大きさに違ひない。