石原慎太郎著『フォアビート・ノスタルジー』

石原慎太郎(著)
文藝春秋 (2015/8/27)

石原慎太郎『フォアビート・ノスタルジー』を読んだ。著者81歳の時の恋愛長編小説だが、どうしてかう若い文章が書けるのかといふやうな筆の艶だ。女性を恋する事に対する作者の全く青年のやうな初心さが文体に薫る。時代の寵児から日本を代表する政治家へ、更には東京都といふ迷宮の主として修羅場をくぐり、脳梗塞を患つての引退の後で、なほこの人の心のやはらかさは一体どういふ事だらう。先日の記者会見では病気の後遺症が発語や自在な反論を妨げ痛々しかつたが、幸い文章には病気の影響は全くない。

後半、小説の筋立ての上で肝心な主人公二人の恋の破綻の場面が弱く、特に終盤話を急ぐ感があるのが些かの瑕瑾だが、間違ひなく、ここには文学の芳醇な時間が流れてゐる。久しぶりに現代小説に酔う事ができたが、それが81歳の著者の恋愛小説だとは……。とりわけ10年前の秘密めいたキー・バーの場面を主とした第一部の男たちの群像は素晴らしい精彩だ。その人間関係の中から浮かび上がる主人公二人の関係、副筋となる現在の主人公の恋、それに照らされた10年前の恋――しかもそれは葬儀に始まり、葬儀に終る死と過去と喪失によつて時そのものへの憧憬となつてゐる。死の嘆きも過去への憧憬も、全く色褪せてゐない。枯れてゐない。読者は今の時間の鮮やかさの中で喪失の連続を経験する。その意味で、この作は、本当の若さを発見するのは老いた人だけだといふ人生の逆説の表現でもあるだらう。

かうした文学による時間の創造は、残念な事に現代の殆どの作家ができてゐないもの。

最近の作家の小説は、大抵、原作より映画の方がいい。原作に文体も時間もないから、俳優の肉体によつて始めて文学として仕上がるといふ体たらくで、こんな事は昭和までは考へられない事だつた。出版社や文藝雑誌が作家を育てる機能を完全に喪つてゐるといふ事だが、そこでビジネスが回つてしまつてゐるから、誰もこの文学の非文学化=シナリオ化を防げない。

石原氏の文學についての正当な評価がなされてゐない事は文藝批評の大きな欠落だと考へる。いづれ、曽野さんや大江氏の文學と共にきちんとした批評を試みたい。

ちなみに、石原氏と豊洲問題、小池都知事の政治責任については、ジャーナリストの有本香さんが、取材を重ねてくれてゐる。又、科学者たちの豊洲の安全性を説く論説は日毎に増えてゐる。私は文藝の徒でかういふ分野では微力だが、事実に基づいた論評を何らかの形で発表する事になる。