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ザルツブルク日記#2 2017年4月13日

 今日は早くも4日目だ。初日、ティーレマンの第九が今一つだつた事は書いたが、翌日のシュターツカペレ・ドレスデン、若手ピアニストの筆頭格トリフォノフのピアノによるモーツァルトの21番、ブルックナーの交響曲4番〈ロマンティック〉はよかつた。尤も正確には分らない。昼間のリハーサルを、いつも何かと心遣ひ頂く桃原さんの御蔭で聞けて、それはいかにも素晴らしかつたが、本番は座席が一列目で音楽的な判断は不可能だつたからだ。同じ公演が明後日もう一度あるのでその時に詳しく書かうと思ふ。

 昨日はサイモン・ラトル指揮ベルリンフィルのマーラーの第6交響曲。このコンビは―ファンの方には申し訳ないが―レコードも生も一度もいいと思つた事はないが、今日は従来聞いてきた中では最もよい出来映えだつたと思ふ。が、マーラーの第6交響曲は、これ又私にとつて全く感心しない音楽で、土台マーラーは2番、4番、7番、9番以外は私にはさして必要な音楽ではない。と書いて苦笑した、この4曲に大地の歌を入れればこれはマーラーの弟子、クレンペラーのレパートリーと全く重なるではないか。要するにさういふ事なのである。

 勿論、6番は大変な力作・難曲だし、今日のラトルの出来そのものがいいか悪いかと言へば、間違ひなく立派な演奏だつた。が、〈悲劇的〉と題された6番――この過剰な懊悩、ハムレット的な意味で、限定されない感情の持て余し、対象を持たぬ激情の持て余しの典型のやうな音楽に意味を与へるには優等生過ぎる。このやうな曲では、バーンスタインやテンシュテットらのやうな、演奏における踏み外しや破滅を恐れない惑溺、耽溺、狂気か、カラヤンやショルティのやうにオーケストラサウンドのパワーで押し切るかしか手はないのではないか。実際、バーンスタイン、ニューヨークフィルの最初の全集の6番は、私自身が対象のない感情の葛藤に苦しんでゐた―のだらうと思ふ、年と共に青春の激情の確かな記憶は薄れる一方なのは仕方がない―10代の頃の愛聴盤だつた。

 私の体験したこの曲で印象的だつたのは、最後の来日でのアバド指揮ルツェルン祝祭管弦楽団の演奏だ。アバドも私の全く評価しない指揮者で、昔、毒舌家のチェリビダッケが「アバドのコンサートを聴いたら30分で心筋梗塞を起こす」と酷評した時密かに同感したものだが――音楽が真面目なのはいいが、目が詰り過ぎて呼吸が全く感じられないのである――、最晩年のマーラーは、その丹念な音楽作りがカラヤンでさへ無骨に聞こえる程の洗練に達してをり、あらゆる細部がまるでコンピューターグラフィックによる精密工学のやうなアニメーションとして出現する様に、私は驚異を覚えたものだつた。同じ異常な精密さであつてもチェリビダッケの場合は精神的な事象と感じられるのに、なぜアバドだと受けれられないのかはまだきちんと考へてゐないが。

 ラトルはそれに較べれば遥かに自然な音楽をする指揮者としてベルリンフィルの指揮台を去る事になりさうである、よくも悪くも……。

 音楽的にはまだ充分に来た意味が感じられないザルツブルクだが、今回は家内と一緒なので、街歩きには余念がない。旅行先でも読書か執筆ばかりといふ事が何年も続き、妻は不満だつたらうが、今回は極力勉強執筆は封印した4日だつた。ホーエンザルツブルク城塞に歩いて登り、山道の緑を楽しんだし、昨日はザルツブルク大聖堂で復活祭のミサに参じた。モーツァルトが洗礼を受けた聖堂だが、ヨーロッパ最大とされるオルガンを弾いた事もあつたのだつたらうか。食事も美味い。昼は街中で店を探し、夜はホテルのサラダやリゾットが滅法美味い。今の所、日本酒、蕎麦、鮨、冷奴はまだ恋しくなつてゐない。

 音楽を勉強したり書いたりといふ生活が当面不可能で、国際政治論、文明論、日本文化論などが優先されることになりさうだから、今度は聴く曲のスコアも関係書も持参してゐない。行きの飛行機では中西輝政氏近著『日本人として知っておきたい世界激変の行方』と山崎正和氏対談集『対談 天皇日本史』を通読、当地でも内藤湖南『日本文化史研究』『源氏物語―葵』、有精堂の研究論文集『古今和歌集』を読んでゐる。中西氏の近著は必読。安倍総理と訣別後の氏の安倍外交評価は掌を返したやうな全面否定で受け入れがたいが、そこを割り引けば大局観も個々の観察もいつも啓発される。

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