ザルツブルク日記#4 2017年4月16日(1)

仲間内への連絡→途中大事な事が覚え書きしてあるので、同志と思つてくれてゐる方は面倒でも読んでおいてください。

〇今日は復活祭。私の場合、音楽祭が目的とは言へ、カトリックでも重要なザルツブルクで一人迎へる復活祭は貴重な経験だ。音楽祭目当ての日本人は殆ど帰国し、ホテルは近隣のカトリック信者と思はれる欧米人観光客で溢れてゐる。勿論、街に出ると中国人、中東人も多いけれど。私は朝食で彩色したイースターエッグを食べ、ささやかながら異教徒として祝意を表しておいた。

それにしても、欧米であれアジアであれ、世界中殆どどこの都市ホテルでお目にかかるのがNew YorkTimesである。今朝も同紙をつらつら眺めながら、政治案件のみならずオピニオンを世界中に毎日発信するこの媒体の異常な影響力について改めて思ひを致した。

4つの危険な国に隣接してゐるのに安全保障の自立が困難な日本がやるべき、最も安価で効果的な安全保障政策が何かは分り切つた事だ。世界の知識人層を取る、知識人向けの発信を取る、他に道なし。

こんな事は、安倍政権誕生の時からわかつてゐた。私のみでは無論ない。総理を一番中枢で支へる政治家や有識者の間では了解事項だつたと認識してゐるが、外務省では何もできず、国の予算では何もできず、民間に金はなく人も乏しく、私自身は徒手空拳の素浪人に過ぎない。政治だけにエッジを立て過ぎた日本保守の論陣を世界に輸出しても駄目なのだ。世界と対話可能な文化総合的なテーブルを日本が作る、それも愛国の立場を深く堅持してゐる故に世界に対して寛大たり得る人間が主導して……。

わかつてゐても時間だけは経ち、日本は相変らず安倍―菅体制による脆くも奇跡的な安定のタガが消えたら、その日から大揺れに揺れ、冷静に何かに対処できる状況ではなくなるだらう。今のまま束の間の「安倍の平和」にうつつを抜かしてゐたら応仁の乱以来の混乱が来るとさへ私は思ふ。それまでに間にあつてくれといふ祈りを共有してゐる同志と優秀な数人の有識者を知り得た数年だつた事が救ひであるが、本当にギリギリだと腹の底から国の明日の亡びを恐怖してゐる人は、やはり少ないなあ。

さて、それはともかく、昨日のフランツ・ウェルザー=メスト指揮のマーラーの第九交響曲は素晴らしい公演だつた。今回の旅行で最も感銘を受けたと言つていい。珍しく批評を書いたが、本当の「批評」は、殆ど創造と同じ仕事だから骨が折れる。スコアも関連書も持参してゐないから大雑把な仕事ではあるのだが。それは改めて出す。

今日はティーレマンのブルックナー、明日は愈々《ヴァルキューレ》全曲である。前も書いたがこの復活祭音楽祭は、夏の音楽祭とは別に、50年前にカラヤンが創設した音楽祭だが、その初年度のカラヤン指揮の《ヴァルキューレ》と同一演出で、ティーレマンが指揮するといふ趣向。《指環》を論じた本を出したくて、今回はその一環として聴きにきたのだが、国の仕事に追はれ続けて結局ワグナー論どころではなくなつてしまつた。

さうは言つても、ティーレマンのワグナー全曲は日本では実現困難だ。現代のクラシックで最も貴重な演目がティーレマンのワグナーである事は論を俟たない。今日は《ヴァルキューレ》の読込みを中心に過ごす。古典も源氏を少々だけにする。
昨晩は赤いきつねとザルツブルクのビール。福岡さん、赤い小池も緑の小池も持参してません。それは日本で召し上がつておいてください。