バッハ《平均律クラヴィーア曲集第1卷》byダニエル・バレンボイム(2) 小川榮太郎(2008年03月22日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年03月22日より)

 バレンボイムの《平均律》で忘れられないのは、平成17(2005)年2月のサントリーホールでの全曲演奏會である。その時のプログラムの中のノートで、諫山隆美氏が「1日をおいて2日間で2卷全48曲をすべて彈いてしまおうというのは、尋常ではない發想」で、「大いに驚かされた」と書いてをられる。諫山氏は、ピアニストやピアノ教師の目線から的確な批評活動を重ねてをられる人だと思つてゐるが、さうした人から見て、この全曲演奏會が、「尋常ではない發想」と感じられた事が、私には面白い。吉田秀和氏がどこでだつたか、―バレンボイムの公演とは關係なく―この曲を全曲通して聽くなどといふのは、暴力に近い、1曲毎の中身が餘りにも濃くて、しかも多彩だから、通して聽いては消化できないし、第一集中が續かない、そもそもバッハは、これを通して聽く爲の曲集として編んだのではないのだから……といふやうな事を書いてをられた事も、思ひ出される。

 諫山氏はピアニストの側から見て、公演を成立させるのが大變困難であるがゆゑに、破天荒な冒險だと云ひたいのだらうし、吉田氏は聽き手として、音樂を味はふ生理に則して書いてゐる譯だが、勿論、バレンボイムがそれらを承知の上で、それでも、あの時《平均律》を全曲として、公演で問うた意味は、どこにあつたのだらう。

 記念碑的な公演だつたと書いて濟ませることは易しいが、實際には、そんな生易しいものではなかつた。白状すれば、演奏の細部に就ては、殆ど覺えてゐない。《平均律》は、昔、型どほりに構造の分析などで勉強して以來、それこそ吉田さんの云ふやうに、少しづゝ取り出してレコードで聽くことはしよつちゆうの事だつたのだが、コンサートで全曲が演奏されてみれば、如何に自分が、細かく味はふ準備に缺けてゐたかが痛感される他ない程、味はひを噛み分けられぬ自分に呆れたと云つた方が正確かもしれない。はつきり覺えてゐるのは、あの1番のプレリュードが、どこからともない湧水のやうに、やがて空から降り注ぐ光の波のやうに、きらきら、きらきらと會場の隅々に流れてゆくのを聽いて、思はず涙が出て來たこと。あとは、前奏曲に導かれるフーガがいつ果てるともなく繰出される内、まるでカテドラルを祈りながら廻遊してゐるやうな幻覺に、朧ろに溺れさうになつてゐたこと。これは、殆ど譬喩ではなくて、サントリーホールが、世俗の音樂ホールといふよりも、莊嚴なカテドラルで、音樂は、ステンドグラスから降る光のやうに、あらゆる色彩が亂れ落ちながら、神の榮光を莊嚴する、目を閉ぢると、心眼には、本當にさうした景色が映じてくるやうだつたのである。

 今、樣々なコンサートでサントリーホールに通つた記憶の中でも、ふわりとした光の中で、バレンボイムが凝結したやうに靜かにピアノに向かつてゐた、あの時の神聖な印象はきはだつてゐる。それから、また、原典主義のバッハ、それも純然たる宗教曲の公演もずゐぶん聽いてきたが、あの時のやうに、會場そのものが聖なる空間に變貌したと信じられた試しは、一度としてない。バレンボイムのバッハが、原典主義的な視點から、嚴しい評價を下されることが多いのは承知してゐるが、この、私の體驗した神性さの印象は僞れない。翻つて、常識に還つてみさへすれば、神性さといふやうな音樂の至高性が、單に、歴史主義的な忠實さなどといふ雜駁な思ひ込みから生れるものではない事にも、確かだらう。

 今日の歴史主義を、私は、古樂イデオロギーと呼び、憂慮と批判の思ひを強めてゐるが、この問題は、いづれ本にするつもりなので、今は詳述しない。手短に云へば、事の核心は演奏の天才の問題に盡きる。音樂は、演奏といふ行爲の中でしか現實とならぬ以上、演奏家は、樂譜の記述を、或る方法に則つて音に置き換へるだけの音樂學者ではなく、樂譜によつて音樂を、この場に現前させる力を持つた藝術家でなければならぬ。原曲が立派であればある程、演奏家にも、また、天才が要求される。天才の殘した音樂の設計圖としてのスコアを、現實の響きの中で、それにふさはしいだけの昂揚と洞察と美と祈りとで滿たすことは容易なことではないからだ。今日バッハを演奏するとは、いはば、18世紀と、21世紀との、時の橋を架け渡す天才同士が切り結ぶ、緊張に滿ちた對話でなければならない。さもなければ、歴史主義的な情報でしかない古樂奏法による演奏が、生きた音樂體驗を、コンサートやレコードから驅逐する事にならう。天才を缺いた知的音樂家による原典主義や、ろくに考へもせずにそれに追從する批評程、クラシックの將來を危くする迷妄はないのである。

 バレンボイムが、ピアノの特性を活かし、チェンバロではあり得ない起伏や歌や、ポリフォニックな掛合ひを、バッハの音樂から刳り出した、その時、私の聽いた、あの聖なる響きの紛ひやうのない體驗は、バッハではないのか。一方、原典主義の有名演奏家、何某からも何某からも、當時の樂器を復元した輕やかな音とフレージングで素描された、清潔な模範演技といふ以上の精神的な經驗、理窟拔きに私を抱擁してくれるやうな靈的な印象が、まるで得られないとしたら、それは、何故なのか。靈性の氣配などといふものは、勿論、凡そ議論に馴染まぬこと最たる主題で、要するに、私はさう觀じたといふ事以上を出ない。それを、承知の上で、しかし、私としてはいつものやうに、自分の印象の由來を尋ねてみる以外の道を歩むつもりはない。次囘、レコードに戻つてこの道を先にすゝめてみたい。(續く)

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秘書室
文芸評論家・小川榮太郎秘書室です。