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バッハ《平均律クラヴィーア曲集第1卷》byダニエル・バレンボイム(4) 小川榮太郎(2008年03月24日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年03月24日より)

 ……チェンバロといふ樂器の固有性からバッハが最大限の美を抽き出したといふ考へを否定するつもりはない。だが、改めてバレンボイムの演奏をじつくり聽くと、バッハの音樂に内在する和聲進行のダイナミズムが、實際には、如何に巨大な表現力の源泉になつてゐるかを、思ひ知らされない譯にはゆかない。そして、それは、ピアノによつてこそ、始めて明らかにされ得たものだ。

 すると疑問が生じる。この和聲進行的なダイナミズムは、明らかにバッハの曲に始めから内在してゐる論理である。バレンボイムが取り出したやうな意味でのダイナミズムが、内々では、誰にも感じられるからこそ、私たちは、この曲を面白がつて聽くのである。しかしチェンバロではそれは充分出ない。これは、フーガの多聲性が、チェンバロでは描き分けられないといふ話にも直ちに通じる。

 バッハは、チェンバロといふ樂器を時代から與へられた。當時、チェンバロは、一人で奏するのに、オルガンと竝び、他の如何なる樂器よりも多聲部を自在に扱へる樂器だつたし、しかもオルガンと異なり非常に身近で簡便である。この樂器で、多聲性や表現の樣々なニュアンスを、バッハが、存分に展開したのは、その爲だ。と同時に、オルガンとは異なり、とりわけかうした室内用鍵盤樂器は、未だ完成からは程遠く、この後19世紀後半に、モダンピアノとして固定される迄、絶えず變化し續けたこともよく知られてゐるところである。

 後世から見て、當時のチェンバロでは、バッハのスコアに内在してゐる、多聲性、色彩、音量上のダイナミズム、和聲進行のダイナミズムを活かすことが出來ないといふ限界があつたことは、認められていゝ筈である。なるほど、バッハの音樂は、限界のあるチェンバロを通して生れた。だが一方、その限界の中で、バッハの創造的な耳が聽いてゐたのが、現實のチェンバロの音だつたとは、どうあつても考へ難からう。ブルックナーやマーラーが、天才的な創造者の内心で聽いてゐた音と、現實に、當時の、ウィーンフィルが出せた響きに、大きな齟齬はなかつた筈である。バッハのオルガン曲でも、バッハの内心の音と現實の樂器の音の間に、大きな齟齬はなかつたと思ふ。だが、彼のチェンバロ音樂は、實のところ、ベートーヴェンのピアノソナタと同樣、樂器の限界と創造力との鬪ひだつたのではなかつたのか。あの和聲的緊張の數々、フーガの複雜さ、各曲の展開の長大さや多彩さは、チェンバロを素材に、將來のピアノでの再現を含意してゐる、さう考へる自由を、後世に與へてゐるといふだけで、既に、そこには、古樂に固執しては死んでしまふ種類の創造性があつたと云つていゝ筈なのだ。

 これは、まことに主觀的な考へで、客觀性のない妄言に過ぎないか。その手の議論は、20世紀に固着したアカデミズムの論理であり、生理であつて、それこそ、それを超えた客觀性を持つものではない。藝術の世界で、作品の受容者とは、遺産の繼承者である。遺産を活かすも殺すも、客觀的な調査の精密にではなく、今日我々の主觀の力量に掛かつてゐる。無論力量を度外視した主觀は迷妄に過ぎまい。だが、生の現實はまことに嚴しい。客觀的な經濟政策も、客觀的な醫療も存在しない。最後は主觀的な斷しかないのは、現場を生きた經驗がある者ならば、誰でも知つてゐる。“專門家”による年頭の經濟豫測は一つとして當らない。醫者が自信をもつて殺した患者の數は無數であらう。まして、物理的制約からの飛翔こそが主題である藝術に、客觀性の僞裝が大手を振つて歩きまはるのは、妖怪じみた光景ではないのか。……

 バレンボイムの演奏が、この曲の演奏史でも特筆すべきものだと、私に思はれたのは、この曲に内在してゐる和聲的な論理を軸に表出し直した時に開示された樂曲の姿が、私には、正にさうあるべき、しかし、今日まで誰も正面きつてその道を歩んだ者のない革命的な美であると、感じられたからだ。短いたつた1曲から取り出した和聲的緊張と、そこで樹立した極めて纖細な美の一ひらだけでさへ、私には、餘りに濃密な喜びである。私は、バレンボイムの演奏で始めて、この曲に、さうした味はひの連續、殆どどのページも新たな美の發見であるやうな溌剌たる曲集の面目を始めて知つた。レオンハルトを始めとするチェンバロ盤は當然として、フィッシャー、グールド、リヒテルなどピアノを用ゐての歴史的名盤も、この音樂に、和聲的ダイナミズムを正確な目盛で讀み込むといふ試みとは別なところで爲された演奏ばかりである。

 比較するまでもなく、この數年、私にとつて、《平均律》を聽くとは、バレンボイムを聽くことに他ならなかつたので、かうした名盤との比較は、書き始める時には考へてもゐなかつたが、かうした機會にいつ惠まれるか分らないのだから、もう少し立入つた論評と比較を、多少なりとも試みて、次囘稿を終へることにしよう。(續く)

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