バッハ《平均律クラヴィーア曲集第1卷》byダニエル・バレンボイム(5) 小川榮太郎(2008年03月25日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年03月25日より)

 今囘は、無駄口を一切排して、バレンボイムの1番のプレリュードの先を少し、描寫する事から始める。

 1番のフーガでは、バレンボイムは、フーガの出を強調するが、それは如何にも自然で、聽いてゐて、主題に先導されながら、音樂のしなやかな抑揚に、自づから誘はれる風である。だが、矢繼ぎ早なストレットの中で重なる轉調が、思ひがけない程苦悶の表情を浮かべ、しかも、それが和聲的な前進を繰返す度に、淨化されるやうに緊張をほどく樣を聽いてゐると、これまで、靜物畫のやうな純粹な美の象徴と思はれてゐたこの作品が、まるで、人生そのものの起伏を思はせるミクロ・コスモスのやうにさへ、觀じられてくる。

 2番ハ短調の、トッカータ風プレリュードは、何か、永遠の逃走の一場面のやうであり、思ひがけないことに、私に、《ヴァルキューレ》1幕の序奏を思ひ出させた。アクセントの位置が1拍と3拍で入れ替つたり、漸強漸弱の波が絶えず演奏を活氣づけるが、計畫犯罪のやうなグールドの“仕掛”とは正反對に、演奏の細部が生み出す大きな音樂の自由が、こゝにはある。後半、プレストに向けて大膽なクレッシェンドが聽かれ、これまた大膽なまでの強奏で掻き鳴らされるアダージョのアルペッジョが、限りない遁走の終はりを告げる。これは譬喩ではない。といふのも、續くフーガが、本當にオペラの一場面のやうに、物語の續きを思はせるからだ。音樂的には、對位法の線を樣々なバランスで萬華鏡のやうに燦めかせ、スタッカートからレガートまでの間に無數のタッチのニュアンスを驅使して、音樂は絶えず新たな光の元に生まれ變り續けることを止めない。だが、さうした構成やら、フーガの主題がどうなどといふ知的な確認を一切捨てゝ、音樂の語るところにだけ耳傾けてゐると、フーガに入つた途端、嵐の遁走からやうやく逃れ、扉のこちら側で、バラードが語り紡がれ始めるやうである。

 3番のプレリュードも1度聽いたら忘れられぬ魅力的な音樂だが、16分音符の走句が、右手と左手とを交互する、その左手に渡つた時に虹のやうにかゝるペダリングの、えも言へぬ抒情。……瞬間に過ぎ去るがゆゑに、長くこゝろに殘る感銘があつた。63小節からのシンコペーションのひそひそ話のやうなニュアンス。75小節からの大膽なクレッシェンドが、音樂の色彩をこゝで一遍に塗り替へ、終結の表情へと置き換へてゆく息を呑むやうな鮮やかさ。……!

 リヒテルの有名なレコードは、バレンボイム盤を手にするまで、最もよく聽いたレコードだが、今改めて、これらの曲をバレンボイムの後に聽くと、どの曲も、和聲的にも、音樂の感興の高まりとしても、展開の感覺がまるでなく、完全に彫塑的な演奏で通してゐる。立派だが、これを何曲も續けて聽いて樂しむといふのは無理があるし、音樂的な意味を考へやうにも、いさゝか手掛りに苦しむといふのが、率直な感想である。これこそが、搖ぎない美なのだと云はれゝば、それはそれで反論は難しいのだが……。

 リーマンによると、「音樂史上最も崇高な曲」とされる4番のプレリュードは、グールドのやうなやり方以外では、かへつて奏法に幅が出ない音樂だが、バレンボイム盤は、それこそ、チェンバロからは想像も付かぬレガーティッシモな演奏である。バッハの音樂には、他の同時代の作曲家からマンハイム樂派に至るどんな作曲家にも見出せぬやうな、ドイツ・ロマン派的な感情表現が豐かである。この曲をチェンバロで聽くと、私はリーマンの餘りに誇張された「崇高さ」といふ言葉に得心するより、寧ろ、思ひがけぬ程纖細で率直な感傷の音樂であることに驚くが、バレンボイムは、ピアノによつて、個人的で纖細な感傷の歌を、冥想にまで深めてゐるやうだ。もし宇宙が感情といふものを持つてゐるのなら、それはかうした歌に託されるのではあるまいか。

 だが、リーマンの有名に成り過ぎた評はともかくとして、この曲の重點がフーガにあるのは明らかだらう。バレンボイムは、この5聲のフーガを、渾身の大建築、文字通りピアニッシモからフォルティッシモまでを驅使して、バッハの構想した對位法的な技法に挑戰する。これは、比較の爲に聽いたグレン・グールドのこの曲の演奏とは、最も遠い世界だが、バレンボイムが、グールドの有名な演奏のことを、意識してゐたかどうかは分らない。或いは、バレンボイムは、ピアノでバッハを演奏するといふ傳統に立つて、素直に音樂を讀んだだけだといふかもしれないが、グールドといふ革命兒がバッハ演奏にもたらした結果への、強い批判がその底にないとは云へないだらう。

 グールドの《平均律》を、全く好きになれない私だが、曲集の中で、彼が、この曲を始め、6番、8番、12番、16番以後のフーガなどの、複雜巍々たる迷宮のやうな作品群を、決まつて爽快なまでの快速調で、構造分析的にも明晰に彈いてゐるのは、目を引くことだと以前から思つてゐた。多くの演奏家が、この種のフーガを、曲の深遠さに引きずられて、まるで御經のやうに演奏する中で、グールドの演奏は、明晰な分り良さとすばやいテンポで、てきぱきと運ぶ中で、樣々に曲の仕掛を解き明かす面白さで、きはだつてゐる。4番でも、宗教的な深遠さは、氣配すら拭ひ去られ、LP時代なら、早囘しにしてしまつたかと思はせるスピードで齒切れよく進行する音樂は、諧謔に近い味はひなのである。

 今囘、この稿の爲に、久しぶりにグールドのレコード(上掲寫眞)を取り出して聽いてみたが、殘念ながら、今の私には、根本から受け容れられない音樂だと云つていゝ。1番のプレリュードが鳴つた途端、その音で、まづ、私は閉口してしまふ。グールドの演奏は、バッハといふよりも、クレーや、それ以降の幾何學的な美意識に近いだらうが、さういふ事よりも、餘りにも、世俗的で貧しい音だと、私には感じら、もうそれだけで興味の前に疲れを覺えてしまふ。グールドの演奏なら、ベートーヴェンを、私は好む。ベートーヴェンのデーモンと抒情との獨自の結合への、グールドの洞察は、見事だと思つてゐる。だが、評判の高いバッハでは、グールドのあらゆるアイディアと才氣は、私にとつて、バッハと私の間を遮る壁にしかならないやうだ。先には、クレーなどを持出したが、もつと本音を眞つ直ぐに云へば、彼の《平均律》に、私は“戰後”アメリカの、ビジネス街のビル風の中に咲いた抒情に喩へられるやうな響きを聽く。グールドに對する興味を私が失つたのは、大學を卒業する前なので、實は、このカナダの孤獨な音樂家の生活や思想に就ては、全く無知だと云つていゝ。だが、その音の風景からは、例へばバンクーバーやモントリオールの街竝の中での、孤獨な冥想よりは、漠然と、マンハッタンやハリウッド、機械工學的な無機質なアメリカの“戰後”の臭ひがする。それが何故なのか、考へたことはないのだが……。

 1囘延びたが、明日、バレンボイムに立ち戻つて、稿を終へることにしたい。(續く)

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秘書室
文芸評論家・小川榮太郎秘書室です。