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日本のバレンボイム評價への疑問(2)小川榮太郎(2008年03月31日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年03月31日より)

 (承前)もつともコンサートばかりではなく、最近の最近のバレンボイムは、レコードだつて大變いゝものが幾つかある。前囘の《平均律》は勿論だが、指揮者としても、例へばベルリン國立歌劇場を振つたベートーヴェンの交響曲全集。あれを先入觀拔きに、虚心に聽いてごらんなさい。私は《エロイカ》や《第5》は今一つと感じたが、それにしても、この半世紀の全集レコードの中で、特に優れた部類に屬するといふ事は、斷言して差し支へないだらうと思ふ。スタイルの新舊ではなく、音樂家としての格が卓絶してゐるのである。

 先日、第4交響曲を、1976年のカラヤン盤と續けて聽いてみたが、カラヤンの演奏が巨大でスマートな最新式のジェット機のやうな演奏とすれば、バレンボイム盤は、新緑芽吹く雄大な林野を散策してゐると、木々の匂ひが鼻先に來るとでも云つたやうな、濃厚な味はひである。スケールの點で全く遜色がなく、―といふより、私にはバレンボイムの方が一囘り大きな音樂に聽こえた―冒頭序奏の、濃密な和聲進行感などは、カラヤンには全くないもので、惚れ惚れしてしまつた。そして、主部に入つての、腹にずつしり應へる太いバスの上に乘つた充實のトゥッティ。上滑りせずに、ぶきつちよに、しかし、何と健康な色氣のたつぷりとした音樂となつて、《第4》が輝いてゐることか! かういふ演奏をフルトヴェングラーのエピゴーネンとする批評を讀むと訝しいばかりである。他にどうやれとといふのか? それにさういふことを云ふ人は、緻密に2人を較べたことがあるのだらうか? 實際には、演奏の明度や、音樂に與へるイメージはまるで違ふのである。

 それにしても、バレンボイムが、こゝまで中身のある、偉大な音樂家になつても、頑迷に批評界全體が、この人を冷遇してゐるのは、日本だけの珍現象ではあるまいか。私の知る限りでは、ヨーロッパの批評は、この人が今到達してゐる地點の高さを認めることに、何ら躊躇をしてゐない。ヨーロッパと云つても、國によつて當然温度差は異なるだらうし、今更、ヨーロッパをダシに、日本の批評に異を唱へる田舍つぺ根性でもないだらう。しかし、讀者の參考にはなる筈だ。覺書風に、バレンボイム批評の彼我を多少ご紹介してみたい。

 「レコード芸術」2005(平成17)年8月の同じ號に、バレンボイムに關する3つの冷評が出て驚いたのが、晩まきながら、日本の批評が全體としてバレンボイム評價に關してかなり「ずれて」ゐるのではないかと感じた最初である。その號では、イギリスの或る雜誌で、指揮者ベスト10を選んだ際、1位がバレンボイムであつた事に對して、それを紹介する日本人の批評家が、強く異を唱へてゐた。本文では1位がバレンボイムなのに、表紙がラトルであるのが、その雜誌の本心であるかのやうに深讀してゐたのには失笑した。そして、その日本の批評家が絶賛してやまないのがヤンソンスである。ヤンソンスは確かに優等生で、いい指揮者とは私も思ふが、ヴァグナー、マーラー、フルトヴェングラー、カラヤンと続く巨大な指揮者伝統に名を連ねるだけの器量はなからう。かういふ判断があるのかと、器小さく器用な美意識のみを尊び始めてゐる日本の批評の傾向の表れなのかと、私には訝しまれた。ところが、その同じ號で、オトマール・スウィトナー指揮ベルリン國立歌劇場管弦樂團のベートーヴェン全集の再發盤が、推薦されてゐて、その推薦文を書いてゐる別の批評家が、ベルリン國立がバレンボイムになつて、アンサンブルは向上したものゝ、感銘はかへつて薄くなつたと書いてゐる。スウィトナーを褒めるのに、わざわざバレンボイムを否定するのも、ご丁寧な言及だと苦笑した。私は兩者のベートーヴェンを生で聽いてゐて、指揮者の偉さの次元は、到底比較にならない事を體驗してゐた。スウィトナーがこなれたいい指揮者だとして、ドイツで、バレンボイムとスウィトナーの器を転倒して評価する者はあまりゐまい。カラヤンとミュンヒンガーの評価を転倒するやうなものだからである。

 だが、極め付けは、同じ號に出た海外通信で、ベルリン在住の城所孝吉氏による、バレンボイムの、ベートーヴェンピアノソナタ全曲演奏會のレポートである。これは若干引用するのを許されたい。

 六月のベルリンの話題は、バレンボイムのベートーヴェン・ピアノソナタ全曲演奏會であった。ウィーンやニューヨークで成功を收めたシリーズとあつて、連日多くの聽衆が詰め掛けたが、結果から云ふと「やはり三十二曲を彈き通すのは難しい」といふ印象であつた。(……)今囘は、あまりにもさらつてゐないのが明らかで、やや興醒め。曲はすべて頭にインプットされており、音樂的にはまとまつてゐるのだが、どうにも手が追ひついていかない。(……)(『レコード藝術』二〇〇五(平成十七)年八月號)

 この公演は、その後、EMIから、チクルスのライヴをそのまゝ收録したベートーヴェンソナタ全集が、DVDで發賣されたので、城所氏のレポートが、どの程度妥當か否かは、容易に確認出來る。確かに、指のコントロールが十全な演奏ではないが、指のコントロールとは何なのか。こゝから放射されてゐる、度外れの音樂的集中力や、各曲毎に示された洞察の深さは、どうであらうか? 演奏の詳細は、別の長篇評論に書いたことがあるので、繰返さないが、今、分賣もされてゐるやうだから、もし1枚聽いてみたいといふ方がゐれば、《熱情》を含む盤か、後期3つのソナタを含む夕べのどれかを聽かれることをおすゝめする。《熱情》のフィナーレコーダでは、確かに指がついて行かず破綻寸前になるが、それ自體が、音樂的表現ではないのか? 映像を通して聽いてゐても、《熱情》が、ピアノ曲ではなく、まるでシンフォニーのやうに響きながら、太い光の大河のやうにうねつてゆくダイナミズムに當てられて、私はその音楽的な興奮の激しさに、ゐても立つてもゐられなくなつてしまふ。だが、ゐても立つてもゐられなくなつてゐるのは、私だけではない。ベルリンの聽衆も又さうなのである。まるでホロヴィッツの公演のやうなブラヴォーの嵐とスタンディングオーベーションの熱狂が、記録されてゐる。當然だらう、この大地に深く根を下した磐石のテュッティの上に築かれた大嵐に醉はずに、一體、どんなかしこまつたお行儀のよい、フィンガーテクニックの準備された演奏を有難がれといふのだらう。

 問題は、城所氏のバレンボイム批評ではない。この公演の明々白々な、客觀的な「大成功」に、氏が全く觸れずに、ご自分の批評のみを書いてゐることだ。海外通信欄は、明らかに報道的な機能の方が批評の機能に優先する。何故なら、事實自體を私たちは知らないからだ。城所氏の批評は、氏がバレンボイムの演奏を氣に入らなかつた事を通じて、公演自體が低調だつたやうに讀者に印象づける。だが、よく讀むと、バレンボイムのベートーヴェンチクルスは、「ウィーンやニューヨークで成功を收めた」と書かれてゐ、映像記録によれば、ベルリンでも聽衆は總立ちの熱狂であつた。この3都市の大成功を向かうに廻して城所氏は、この公演を酷評した。批評家として、己の感じたところを率直に語るのは勇氣である。しかし、報道の性格の強い海外通信欄では、3都市での成功をまづジャーナリストとして公平に紹介した上で、ご自分の異見を述べるのが筋ではあるまいか。かうした偏向報道を通じて、日本の音楽通の中で、バレンボイム=やつつけ仕事といふ誤つた印象が定着し続けてゐることは、私は、日本の音楽ファンの手痛い損失と思ふ。

 ちなみに、今年1月のBBCクラシック誌は、バレンボイムのベートーヴェンを特輯してゐるが、バレンボイムは、「現在世界最高のベートーヴェン演奏家」と紹介されてゐる。One of 拔きの最上級である。そして、彼のベートーヴェンのピアノコンチェルトチクルスのライヴのDVD盤が☆5つ、同時期に出たポリーニのベートーヴェンの初期ソナタアルバムは☆4つである。私には、この判斷は、まことに妥當と思はれるが、日本ではまづあり得ない話だらう。日本では、バレンボイムのベートーヴェンのコンチェルトなど、國内盤にもならず、レコード屋にも冷遇され、殆ど誰にも氣づかれぬ内に、埋もれてしまつた。『レコード芸術』は、ソナタ全集の時と同樣、批評さへ出さなかつたやうである。

 何が云ひたいか。要するに、日本の批評家達に極めて幅廣く行き渡つてゐるバレンボイムバッシング或いはバレンボイムパッシングの傾向がまことに根強いものだと云ふ事が云ひたい。

 だが、それにもかゝはらず、日本のコンサートゴアーのバレンボイム評價は、世界と同樣高い、次にそれが云ひたい。先般のベルリン國立歌劇場の來日公演は、《トリスタン》《ドン・ジョヴァンニ》に加へ《モーゼとアロン》を含んで、11公演全てほゞ滿席の上、シンフォニーコンサートも4囘開催されて、一部を除きやはりほゞ滿席であつた。1人の指揮者で、東京公演を、オペラ中心に15囘埋められる人は、現存ではちよつとゐまい。アバドが唯一あり得るかと思はれるが、15公演では難しからう。前囘このブログで取上げた《平均律》の2日間での全曲公演も、サントリーホールでとなれば、ポリーニ以外、滿席にできるピアニストはゐさうにない。

 批評が作り出す評價の根強い偏向が、問題なのは、歐米基準と異なつてゐるからではない。歐米同樣、日本の聽衆もまた、聲なき聲によつて、バレンボイムを壓倒的に支持してゐるのに、批評が、さうした聽衆の動向と、全く擦れ違つてゐ、しかも、そのすれ違ひを自覚してをらず、しかも、そのネガティブな判斷に、何ら正當性が感じられないからである。そして、注目すべきは、批評が先導するのは、殆どネガティブイメージばかりなのにもかゝはらず、バレンボイムコンサートを、日本の聽衆が埋め盡してゐるといふ事實の重さである。

 日和見も迎合もゐらない。批評は信じた事を書けばいゝ。だが、本當に、心の耳で聽き、對象と對決してゐるのか、何か不注意な氣持で、バレンボイムへの冷評の風潮に乘つてゐるだけなのかは、批評家各位に、少し考へ直してみていたゞきたいところである。

 ちなみに、若き日のバレンボイムを絶讚してゐたのは、宇野功芳氏だが、その後のバレンボイムを、氏が名聲に甘え妥協したたゞの才人に墮したと見てゐることは明らかである。さう見えた時期がバレンボイムにあつたのは、事実かもしれないが、今、そのバレンボイム評は、はつきりと修正されるべき時期に達してはゐないであらうか。

 一方、その昔、壯年期に入り掛けのバレンボイムに、21世紀前半最大の巨匠、フルトヴェングラー以來の巨匠の誕生を豫言したのは、たゞ1人、故福永陽一郎氏であつた。文體も洞察力も素敵な方だつたが、早く亡くなられたのは殘念である。お元氣でをられゝば、今のバレンボイムの大成に、胸を聳やかして、「どうだ、云つた通りになつたのに、諸君はまだ認めようとしないの? 死んだ禿頭のお爺さんだけが巨匠なわけぢやないよ。」とおつしやられるのではあるまいか。(了)

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