どうしても見ていたゞきたいDVD―バレンボイムの《ラマラコンサート》/小川榮太郎(2008年04月02日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年04月02日より)

 前囘の文章で、バレンボイムのベートーヴェン全集中の《第5》は、今一つと書いたが、この曲では、昨年、西東詩集オーケストラとのラマラコンサートでの《第5》が、飛び切りファンタスティックで、素晴しい名演奏である(寫眞參照)。しかし、この映像作品は、單に優れた演奏の記録と云ふ譯にはゆかない。アラブとイスラエルの戰火續く中、その雙方の若い音樂家達によつて1つのオーケストラを作り育てたエドワード・サイードとダニエル・バレンボイムの情熱を手短に要約する事は、難しい。要約は、難しいが、このドキュメンタリーを見れば、バレンボイムが、この仕事に音樂家としての最も深い情熱を注いでゐる理由は、餘計な論評拔きに理解できるだらう。激戰地區ラマラでの公演實現に向けての、バレンボイムと若者たちの、命懸けの情熱を描いたものだが、ドキュメンタリーとしても演奏としても、視聽者を、音樂行爲の根源に拉し去る深い力を持つてゐる。

 私はお手輕なヒューマニズムを好まないが、このドキュメンタリーは、さうしたものとは全く異なる。身内同士が、實際に殺傷し合つてゐるやうな、多民族の若者たちが、同じオーケストラで生活と音樂とを共にする。彼らにとつて、都市のど眞ん中のバス車中に於ける無差別テロは、懸念ではなく、今日の生活なのである。戰死は、お喋りの中の可能性ではなく、明日の可能性なのである。その殺し合つてゐる兩陣營の若者が寢食を共に音樂する、それを纏める音樂監督であるバレンボイムの雙肩が擔ふものゝ重さが、讀者に想像できるならば、私はこの映像に就て、一切の言葉を愼み、たゞ見てくれと云ふにとゞめれば濟むだらう。

 どれ程の傷が、この若者らの内心に、消えずに殘り、理性の無力がどれ程悲しまれ、どれ程の呪詛が、祈りの赦しとの葛藤に苦しみ、どれ程の自問自答が、この若者たち一人一人の心に宿つてゐるか。だが、これは私の感傷に過ぎない。畫面の彼らは、私の澱んだ感傷のとゞかぬ、爽やかな生命を音樂の今に燃燒して、美しい。それが、また、私の涙を誘ふ。翻つて、今の私ども日本人の有樣はどうだ。――あり餘つた物質と、精神の鍛錬ないまゝ續く平和と、人權イデオロギーとが、どれ程、人間を汚れた生き物にしてしまふかの見本以外の何者でもない。私は悲しい。

 ヨーロッパでのバレンボイムの評價に大きな重みが加はつたのは、この、西東詩集オーケストラとの活動によるところが大きいともきくが、それはこの映像作品を見れば、當然の事と納得する他はない。このやうな活動は、社會的な活動であつて、純粹に音樂家としての評價とは違ふではないかといふ議論には、私は斷乎反對である。彼自身繰返し強調してゐるやうに、彼の言動は、何ら政治的なものではない。この人は、政治ごつこに興じてゐる有名音樂家などではない。功成り名を遂げた著名な音樂家が、本業の序でに、社會的發言に色氣を出したといふやうな話ではない。

 この活動は、一人の音樂家の、音樂するといふ行爲の核心部分で、選び取られたもので、ドキュメンタリーの畫面全體に響いてゐるのは、この人の音樂行爲そのものだ。バレンボイムは問うてゐる、人生に於ける音樂は、裝飾品に過ぎないのか。經濟生活上の勝者達の夜の生活を彩る贅澤品に過ぎないのか。原典を蟲眼鏡で調べる事が、ベートーヴェンの創造に對應する音樂家の在り方なのか。それとも、音樂の偉大さとは人と人とを架け橋する、根源的な對話の行爲なのではないのか。音樂とは、長い戰亂で心身に深い傷を負つた人達にさへ、己の尊嚴に、そして他者の尊嚴への氣づきを與へ、正氣を取り戻す、愛のエネルギーの力強い迸散以外の何物なのか。さうした愛とは、お涙頂戴の感傷ごつこではなく、人間が生きる意味にラディカルに直結したものではないのか。今日の音樂行爲は、餘りにも、さうした根を忘れて久しくはないのか――

 このやうな問ひに、言葉で答へるのではなく、音樂行爲の中で答へてゐる人間がゐるとすれば、その行爲と、彼の音樂の内實とは切り離せまい。このドキュメンタリー作品は、最近私が經驗した最も深い音樂思想である。

 これは是非共ご覽になつていたゞきたい。私は、自分が、この數年で購入した全CD、DVDの中で、たゞ1つおすゝめするとすれば、この作品をこそすゝめたい。名演奏のレコードは澤山あるだらう。例へば、こゝでの《第5》よりも、もつといゝ《第5》のレコードはあるかもしれない。だが、そもそも、さうした聽き方、さうした音樂との關はり方自體が、錯誤であり、精神の貧困ではないのか――この作品は、私どもに、生命がけでさう問掛けてゐるからだ。名演奏のレコード、大いに結構である。だがその名演奏は、一體、どう聽かれてゐるのか。CDが溢れ、情報が溢れ、コンサートが溢れ、音樂は、お手輕な消費物になつて久しい。さうした状況は、根本的に錯誤ではないのか。資本の論理には適つてゐても、人間の論理には適つてゐないのではないか、音樂は、文化は、人間は、どのやうに奪囘されねばならないか、――この作品から直かに來る聲は、私にさう問掛けて止まない。

 この映像を始めて見たのは、去年の夏頃だつたと思ふが、その後の來日時のインタビューで、バレンボイムが、「ラマラコンサートの開演前、1人で樂屋で出番を待つてゐて、何故こんな危險な眞似をしでかしてしまつたのかと、突然恐怖に襲はれた。舞臺に出て、暖い拍手に迎へられた途端その不安は消し飛んだのだが。」と述懷してゐた。それはさうだらう。この偉大な音樂家に就ては、私も、身の安全を、最も懸念する。何としても天壽を全うしてもらひたいと、全身全靈で祈る思ひである。(この項了)

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