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アルマ・マーラー著『グスタフ・マーラー―愛と苦惱の囘想』石井宏譯(中公文庫)(1)(2008年4月8日)


(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年04月08日より)

 白状するが、私はアルマのこの有名な囘想録を生れて始めて讀む。私の音樂的青春は、マーラー流行と重なり、重要なマーラー指揮者と呼ばれる人の生演奏は、バーンスタイン、テンシュテット、ベルティーニ、シノーポリ、アバドらを始め、大概聽いてきただらうと思ふ。だが、殘念ながら、それらのマーラー演奏に、1度として感銘を受けることがなかつた。今でも《第9》にだけは、絶大な感銘を覺えるが、それ以外のマーラー作品は―《大地の歌》を含め―幾ら注意深く聽き直しても、深い共感へと素直に誘はれることはない。それは私の偏屈なのか。マーラーの音樂そのものが、私には縁遠いものなのか、それとも、いはゆるマーラー指揮者と呼ばれる人達が、概して私の生理に合はないといふことなのか。

 今、思へば、私の音樂的青春は、ベートーヴェンとブルックナーに、同時代の指揮者では朝比奈隆とセルジュ・チェリビダッケに捧げられたやうなものであつた。ベートーヴェンはともかく、ひよつとすると、チェリビダッケが存在しなかつたならば、ブルックナーが、私の青春にそれ程大きな意味を持つことがあつたかどうか。無論、今でも、ブルックナーこそは、最も愛する作曲家の1人である。バッハ、ベートーヴェン、ヴァグナーと竝び、ブルックナーこそは、私の精神生活の王座を占める藝術家で、それはこれからも變りはないだらうと思ふ(大ドイツ主義の右翼のやうな趣味だと嗤ふなかれ! )。だが、假定として、もしチェリビダッケが晩年、ブルックナーではなく、マーラーをライフワークに選んでゐたとしたら―この假定を聞いただけでチェリビダッケは「ナンセンス!」と叫ぶだらうが―、私にとつてのブルックナーの位置は、今よりやゝ低く、逆に、マーラーの意味は、凡そ異なつたものになつてゐなかつたと言へるであらうか?

 晩年のチェリビダッケのスタイルでのマーラー! 《復活》や《第3》が、恐らくチェリビダッケの棒の元、どのくらゐ綿密な意味と壯大さによつて編み直され、《第4》が、どれ程の、天上の甘い夢幻に、聽き手を誘ふことになつただらう。晩年、原曲の内容を桁1つ深讀みしてしまつたやうな凄じいチャイコフスキーの3大交響曲を指揮したチェリビダッケが、マーラーの《第5》《第6》を、今聽かれてゐる可能性を遙かに凌駕して、巨大な悲劇の構築を實現してゐたとしたら、それは、シンフォニーの極限を踏み越えてしまつてゐたことだらう。――

 それはともかく、書棚に置き去りにされたまゝ、始めて手にとつたアルマの囘想、これは私には、實に面白かつた。マーラー文獻は、勿論ずゐぶん澤山邦譯もされてゐて、私も、勉強がてら讀んだものは幾つかあるが、この度、アルマのこの作を熟讀してみて、マーラーに關しては、この1册と、幾つかの書簡、そして、『マーラー頌』さへあれば充分だとさへ、感じたのである。

 『詩と眞實』との雙方を含まぬ自傳などある筈もない。ルソーが『告白』で、臆面なく己の全てを公開するといふ奇怪な實驗を敢行した後に、その不可能性を率直に認めたゲーテが自傳に名附けたのが『詩と眞實』といふ題名である。ルソーが、本當には“告白”を實行し拔くことが出來なかつたやうに、ゲーテも、恐らく“詩”の影に己を充分に匿すことは出來なかつた。以來、ゲーテの「詩と眞實」といふ洞察を超える自傳も告白も、恐らくたゞの一つもありはすまい。

 その上、アルマに關しては、彼女自身才氣と美貌に惠まれた、大變誘惑的な女性だつた。アルマの書いたまゝを信ずるのは、クレオパトラの手記を通じて、シーザーとアントニーとの關係の史實を同定するやうなものだと言はれゝばその通りなのである。しかし、一方、クレオパトラとアルマには重大な違ひもある。一方は政治家の愛人であり、一方は、マーラーといふ藝術家の妻だつた。マーラーは作品を殘してゐる。シーザーの作品は、國家そのもので、政治家としての人間像などではない。シーザーのこひこゝろをクレオパトラがどれ程刺激できたとしても、彼女はシーザーの作品たる國家には一指たりとも容喙し得なかつたらう。萬が一、クレオパトラが囘想を書いてゐたとして、そこには人間シーザーやアントニーは現はれるだらうが、作品たるローマを彷彿させることは不可能だつたらうと思ふ。だが、アルマの囘想録には、マーラーの人間だけでなく、その作品が、その音樂が、何と豐かに鳴り響いてゐることだらう!

 これは、アルマにもグスタフにも、罵られる言ひ方だらうが、この「囘想録」はマーラーの交響曲と同じくらゐ、いや、本音を言へば、マーラーの作品よりも―ほんのちよつぴりといふことにしておくが―私には面白かつた! マーラーの音樂がどのやうな夢を抱いてゐたのか、さうした夢を生きた天才が、どれ程の苦を人生で代償しなければならなかつたことか。さうしたマーラーの人生苦が、文字通り、まるで、彼の音樂のやうに響く。音樂の注釋ではなく、恰も、マーラーの作品の最も率直に、その内奧に肉薄する演奏のやうな文章である。

 アルマの筆は、マーラーへの甚しく熱烈な愛憎の痙攣に顫へてゐる。アルマは愛憎に曇らぬ眼差しでマーラーを的確に描出しようなどと、考へもしなかつたらう。彼女は、マーラーとの10年の結婚生活の事實ではなく、その時々の愛憎の振幅をこそ、こゝで、死に別れて20年以上經つた今、恐れ氣もなく、自ら追體驗しようとしてゐるかのやうだ。20歳で、風采の上がらぬ、極度に強烈な自我と天才の所有者たる40男に自ら身を投げ出した人生の顛末などに、客觀的な事實などある筈もないのである。誇張された夢と、神經と、愛憎の亂舞があるだけで、それは日録風に記録可能な事實とは、おそらく別の時空を交叉して、出會ひやうがなかつただらう。

 本書は、マーラーが熱愛してゐたといふドストエフスキー的な人間群像の、交響的變容だ。その愛、その對人關係、その生活、その藝術と人間的な葛藤の正面衝突は、何と情容赦ない色彩を帶びてゐることか。彼女の、斷乎たる樣々な偏見によつて、何とマーラー最後の10年の映像は、人間的な眞實として力強い蘇りを果してゐることか。(この項續く)

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