ヴァグナー作曲《ヴァルキューレ》第2幕 指揮ダニエル・バレンボイム/バイロイト祝祭管絃樂團/演出ハリー・クプファー/ヴォータン ジョン・トムリンソン/ブリュンヒルデ アン・エヴァンス他/1992年6,7月バイロイト祝祭劇場/小川榮太郎(2008年04月28日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年04月28日より)

 バレンボイム指揮、クプファー演出のDVDから《ヴァルキューレ》第2幕を通して聽いた。本當は、全曲聽きたくもあつたし、批評の體裁としては、2幕のみといふのもいゝ加減な話であるが、珍しく妻の所望があつた。音樂好きといふものは、何かを一緒に聽きたいと云はれると嬉しいものだ。感想の備忘録として容赦いたゞければと思ふ。

 それにしても、言葉もない程凄い作品の、素晴しい指揮、素晴しい歌唱、そして何と素晴しい演出と演技であらうか! 實は、この《指環》は全篇はまだ見てゐない。かつて視聽した《ラインの黄金》は、歌唱全體もこれよりもやゝ落ちる印象があつたから、全體を通してどんな感銘があるかは、これからの樂しみに取つて置くとして、《ヴァルキューレ》に關しては全くもつて素晴しい出來榮えである。バレンボイムは、最近の圓熟が著しく、さういふことを書き散らしてもきたが、この演奏は92年の收録。既に巨匠の演奏であり、バイロイトのホールで響く祝祭管弦樂團は、ヴァグナーにふさはしい深みある音に熟成してゐる。バレンボイム指揮、ポネル演出の《トリスタン》はこれより10年前くらゐのものだつたらうか。バレンボイムの指揮が、空廻りした薄味であつたといふ、朧げな印象がある。遠い日の印象を持ち出して較べるなんて、土臺詰まらない話だが、《ヴァルキューレ》に聽く響きの成熟が、私には、まるで別人の見事さに感じられたのは、間違ひない。

 2幕出だしの嵐の中の逃走の前奏曲からして、勇壯で、有機的で、がつちりと重厚に響きながら、―昔のクナッパーツブッシュや何かとは違つて―實によく流れる音樂だ。響きは、戰後モダニジムへとヴァグナーを“脱色”しようとしたベーム、カラヤンと較べ、重たい厚ぼつたさが復活してゐるが、和聲的なニュアンスへの俊敏な反應力が、風合ひの艶やかさを與へてもゐる。リズムの力は、垂直方向に、ぐいぐいと踏み締められるのではなく、壓倒的な推進力となつて表れる。音樂は、彫塑的、神話的ではなく、しなやかで迅速に流動する。重厚なヴァグナーサウンドを失はずに、雄辯な演劇的流動性が實現されてゐる。奧行深くとられた舞臺の上で、歌手を縱横に全力疾走させる演出も、音樂の偉容を、流れの勁さで表現する演奏と、深い適合性を示してゐる。

 前奏曲のをはり近く、驅拔けるやうに逃げ去るジークムント、ジークリンデと入れ替りに、疾驅して舞臺に登場したヴォータンとブリュンヒルデは、身體一杯に興奮と愛情とを表しながら、槍を使つて父娘の勇壯な愛を交はす。やゝ誇張して云へばアースリートのやうな身のこなしだ。この、激しい身體運動性への志向は、全體に亙つてゐて、ヴァグナーの音樂の印象全體を筋肉質なものへと變質させる程、大きな影響を視聽者に與へる。これこそ、正當な意味での、演出による作品の革新と、私には思はれる。

 《指環》演出には、發表當初から、難題が付纏つてゐたのは、周知のことだ。登場するのは神々だが、實際に、神々を見た者はゐない。リアリズム風の演出が、如何にも黴臭い、子供騙しの氣配を免れなかつた所以である。第2次大戰後の、ヴィーラント樣式の抽象性は、ナチズムとヴァグナーとの觀念聯合を斷ち切る意味と同時に、ヴァグナー演出の具象性に纏る問題を、一擧に解決する新しい風だつた。クナッパーツブッシュは、これに反撥して、指揮しながら舞臺を見ようともしなかつたが、フルトヴェングラーは、舊來のヴァグナー演出に疑問を感じてをり、ヴィーラント樣式には、理解をもつてゐたやうである。(實際にその演出で指揮したことはない。)戰後のヴァグナー演出を、方向づけたこのヴィーラント樣式の時代は長かつたが、それに對して、ポストモダニズムと共に70年代後半から、新たな思潮にとつて代はつたのが、讀み換へ演出である。云ふまでもなく今日主流のヴァグナーである。この映像のクプファー演出は、大鉈をふるつて斷言してしまへば、さうした讀み換へ演出の觀念性からは、大變遠いところにある。身體性や演劇性、舞臺全體の空間性を、大膽に前面に打出すことで、作品の力を、深いところから更生することに成功してゐる。演出嫌ひの私にとつて、これ程、全面的に素直に共感できる演出は、本當に滅多にないものだつた。

 それにしても、この上演の、總合藝術としての連携の滑らかで深いことに、私はすつかり感心してしまつた。最初の、強烈なヴォータンの陶醉から一轉して、フリッカの陰氣臭い糾問、そして、ヴォータンの敗北の邊りの、3人それぞれの演唱力と、舞臺での演劇的なポジショニングも素晴しいが、その後の、ブリュンヒルデを相手にしたヴォータンの獨白、これには、特に感銘を受けた。トムリンソンの獨壇場である。聲も立派だが、それのみに頼らず、心理劇として、音符の中に、歌詞の中に踏込んで、起伏の激しい激情を刳り出す。聽いてゐた妻が「シェイクスピアみたい。」と呟いた。なるほど、どんなオペラとの類似よりも、ハムレットの獨白が聯想される。演技としても、ヴァグナーの獨白場面にありがちな間の拔けたところがまるでない。觀念的な讀み換へに腐心するよりも、演技としての細部に徹底した演出の勝利だらう。その上で、トムリンソンの歌の起伏を、より大きく太い流れに統合してゐるのが、バレンボイム指揮の、ニュアンスに富んだ管絃樂パートである。たつた一つの弦のアインザッツが何と意味深く響くことだらう。伴奏とは到底云へまい。この管弦樂の“歌唱”能力は、全く素晴しい。

 後で、この獨白部分を、より有名な、ブーレーズ=シェローのDVDで見てみた。まるで別の曲である。無論、この盤も、綜合的に見て、魅力ある優れた上演記録には違ひない。だが、ブーレーズ指揮による、解析的な管絃樂パートといふ通説は、惡い冗談ではあるまいか。ヴァグナーを平面幾何へと置き換へることだけが、解析性ではないだらう。その和聲的な劇の味はひを垂直方向へ解析する道もあつていゝわけだらう。バレンボイムのさうした垂直方向への“解析”のニュアンスを經驗した直後の耳には、ブーレーズ盤の、この箇所は、音樂の上を、歌唱と管絃樂がきれいに滑つてゆくだけのやうに聽こえてしまふ。あの無我夢中のドラマそのものが雲散霧消したかのやうである。一言で云へば退屈なのだ。そして、大概のレコードや上演では、確かに、このモノローグは、さうさう面白いものではない! ましてや、シェイクスピアなどを聯想する程の起伏などは!

 それにしても、歌唱が全體に、これ程良いとは、寧ろ意外だつた。ブリュンヒルデのエヴァンスは容姿もふさはしく、聲も冴え冴えと彫り深く見事である。ジークムントとジークリンデは、1幕が活躍場所なのだから、こゝでの出は少ないが、質素な衣裳に身を包み、抱擁しながら辛いやり取りをする最後の場面は、演技歌唱共にこゝろに滲みた。ジークムントのエルミングも輝かしい美聲であるのみならず、英雄の最期にふさはしい全力投球の演唱だ。もつとも、彼とブリュンヒルデとの遣り取りで、安らぎの眠りから、ジークムントの激しい怒りまでが、搖ぎなくニュアンスの寸分の狂ひもない長大な漸増の1フレーズで描かれてゐたのは、バレンボイムの棒の力である。何と大きな1呼吸だ。夜の闇の靜けさから始まるさゝやかなさゞ波が、スローモーションのやうに、徐々に大きな大きなうねりに鬱勃と高まつてゆく。私の全身に電流が走つた。

 そして、フンディングの登場、決鬪、あつけないジークムントの最期。勝者のフンディングに嫌惡もあらはに、「立ち去れ!」と吐き捨てるヴォータンの絶叫と共に、その場にどうと斃れるフンディング。氷付くやうな緊張の瞬間である。
…………

 こゝに至るまでの内面的な葛藤のドラマ―ヴォータンのそれとジークムントのそれを私は云つてゐるのである―の長大さに較べ、殆ど瞬時に、あらゆる劇的な結末に達してしまふその後の展開の凝縮。ヴァグナーの全く大膽な天才のみが可能にした、こんな特殊なドラマツルギーを、バレンボイムは、鮮やかに浮び上がらせてゐた。

 それにしても、《ヴァルキューレ》とは、何といふ作品だらう。最近、《千人の交響曲》《オネーギン》《春の祭典》《アルプス交響曲》《幻想交響曲》などを、繰返し聽く機會が多かつたが、《ヴァルキューレ》の音樂としての滾々と盡きざる力、豐饒、發見の、この無限大の感銘はどうだ。桁がまるで違ふではないか! 眞つ直ぐにこちらに向かつて迸るかうした音樂の力を、私は、何と容易に忘れてしまふことだらう。音樂は、これ程までの燃燒で、有無を云はせず私を鼓舞してくれる力であるのに、それは、何と絶えざる再確認を必要とすることだらう! だが、さうした力を音樂から見出すことの出來た數少ない天才の、汲み盡し得ない正體への、見果てぬ探究の夢以外に、本當の批評の栖はどこにあるといふのであらうか。

 最近、知見を擴大しようと思ひ、書物にせよ音樂にせよ、以前から好んで愛讀、愛聽してゐたものを遠ざかり、以前には敬遠してゐたものばかりを、「勉強」してゐる。(それが、シュトックハウゼンやブーレーズ、ノーノではなくて、マーラーやストラヴィンスキーだつたりするところが、我が事ながら、餘りのアナクロで、笑つてしまふ。)

 だが、それでも、自問自答は止まない。バッハ、ベートーヴェン、ヴァグナー、ブルックナーなど、心底愛する音樂だけを、多少なりとも深く理解し味はふだけでも、人生の時間は決して充分ではなからうに、どうして、それでよいと出來ない自分がゐるのだらうか、と。文學にしても同じことだ。世間がどうであらうとも、プラトン、シェイクスピア、ゲーテ、バルザック、ドストエフスキーだけでも、充分に讀込み、疲れたら『鬼平』か『ポワロ』で息拔きをする。人生の與へてくれる、それこそが、極上の、樂しさと豐かさではないのだらうか? 私は、何故、その心境に大悟徹底出來ないのだらうか、と。(この項了)

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