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マスネ作曲《マノン》5幕(2) 小川榮太郎(2008年09月05日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年09月05日より)

 (承前)さて、今囘のオペラ《マノン》だが、1幕では、マノンとデ・グリューの出會ひと驅落ち、2幕は2人の同棲生活、マノンの裏切とデ・グリューの拉致、3幕は、金滿家と結婚したマノンが、ふと小耳に挾んだ噂話から、デ・グリューが牧師になつた事を知つて會ひに行き、つひに、彼をして再度の驅落ちを決意させる最大の聽きどころ、4幕は、賭博場。再び一緒になつた2人の生活が行き詰り、賭博で勝つたものゝ、負かした相手に、警察に告發され、逮捕されてしまふ。そして短い5幕は、牢獄に捕へられ、ぼろぼろになつたマノンが、改悛し、デ・グリューの腕の中で死ぬ。

 アベ・プレヴォ(1697~1763)による原作は、筋書が遙かに面倒で、オペラ化に際して、簡略にされてゐるのは當然だが、問題は、原作の、生命を的に戀を貫徹するデ・グリューの野蠻な迄の實行力が、パリ風の洒落た世界に根本から樣變はりしてしまつてゐる點にあるだらう。プレヴォの《マノン・レスコー》は、作者の自傳的作品とも云はれるものだが、肝腎なのは、それが全く以て、思はず語らずにはゐられなかつたであらう人生の最大の事件の簡勁極まる記録になつてゐる事だ。書いてゐたプレヴォにとつては、無論、マノンが主題だつたに違ひないが、讀者にとつての主題は、疑ひもなく、デ・グリューの側の、人生を棄てゝ戀愛を貫徹し續ける、強烈で、しかも一貫した情熱にある。マノンは永遠の處女のやうに可憐なのに、移り氣で、贅澤にからきし弱く、金持の色女になるといふ遣り口で、いとも易々と、三度までも、デ・グリューを裏切る。しかし、それは、羽毛のやうに輕やかな裏切なのだ、後の戀愛小説にありがちな、複雜さも葛藤も、微塵もない。彼女は贅澤が好きで、享樂が好きだ。それだけの事なのだから、彼女の美貌に目の闇んだ好色漢の申し出を斷る理由はない。自分の裏切によつて、デ・グリューの戀心に、どれ程激甚な絶望が走り、本性高潔なデ・グリューの人格上の龜裂と、生活の破滅が、どれ程深刻で徹底したものになるか、何一つ感じてゐない。それでゐて、デ・グリューを愛してゐる事を、彼女自らは露疑つてもゐないのである。

 裏切られる都度、デ・グリューは、奪はれたマノンを奪囘し、その騷動の中で、捕へられ、感化院や修道院にぶちこまれては脱走し、同じく感化院に閉ぢ込められてゐるマノンを強奪する。金に詰れば、賭博詐欺を常習し、友人をも騙し、修道院を脱け出る時は、誤つて人を殺し、さうまでして一緒になつたマノンには、いとも容易に再び裏切られる。

 繰返しの擧句、マノンは重罪に値する淫女として、アメリカに護送されるが、話はまだ終はらない。デ・グリューは、父親の厚情を棄て、パリを棄て、襤褸を纏つて汚れ果てたマノンに付き添つて、まだ殆ど土民のやうな暮し振りであつたアメリカに渡り、そこで始めて、こまやかな戀の喜びを分ち合ふ事になる。が、その幸せも長くは續かない。或る事件をきつかけに、マノンは呆氣なく死んでしまふからだ。……

 かう書けば馬鹿馬鹿しいやうな話だが、讀んでゐれば、逐一、さうあつてごく自然な、男と女との赤裸々な情熱の原型が書かれてゐる。凡そ、實人生で徹底した戀愛を經驗する人間は極めて稀である。實人生での戀愛の殆どは、樣々な妥協と虚僞、虚飾が奏でる微妙な反音階に、殆ど、原色の生々しさを失つてゐる。原色の生々しさなどと、簡單に口にしてはいけないのだらう。行き違ひを重ねて、一方的な思ひ込みから相手に付纏ひ、差し違へて無理矢理の心中事件などは、今日でも後を絶たない。デ・グリューの戀愛が生々しいとすれば、それは、事件が目を背けたくなるやうな悲慘さで彩られてゐるからではない。彼は惡徳を憎み、純粹で、高潔な男であり、また、この戀の最中でも充分に目覺めてゐる。

「世の中には、惡による僞の幸福に溺れて、善による幸福よりも、その方を公然と選ぶ澤山の罪びとたちがゐる。しかしながら彼らの執著するものはいずれにせよ幸福の幻影であつて、彼等は外觀に欺かれてゐるのだ。けれど私の場合はどうだ。自分の執著する目的物が、ただ自分を罪に落して、不幸に導くだけの役目をするにすぎないといふことをよく知つてゐながら、それでもなほ、進んで不運の中へ、罪惡の中へ、身を急がせてゆくのは、それは思想と行爲との矛盾であつて、私の理性に對する侮辱である。(岩波文庫版河盛好藏譯97頁)

 これはドン・ホセの科白ではあるまい、理性の時代の夜明けに情念と理性との強烈な葛藤を、しかし冷徹に演じ切つたハムレットの獨白であらう。デ・グリューは、ホセのやうにカルメンに當てられた中毒患者ではなく、マノンを選び續ける行爲主體である。この明晰な自覺と、眩ゆいばかりに無謀な行動への絶對的な衝動との、輝かしい相剋は、今日餘りに容易に戀に負けて犯罪者に轉落する精神構造とは、はつきりと正反對のものと斷じていゝだらう。

 マスネの《マノン》は、原作の、自己への確信に溢れたこの男の理性の激しさからも、直情徑行の激しさからも、はつきり顏をそむけてゐる。それは、悲しい結末は迎へるものゝ、全體としては、上品で洒落たメロドラマなのである。これは、10年程前に書かれたビゼーの《カルメン》が、メリメの原作の強烈な效果を、一層際立たせようと努めたのとは、全く逆の姿勢だ。それは、序曲の砂糖菓子のやうなきらきらと甘い心地好さからも明らかだらう。なるほど、デ・グリューに與へられた音樂には、激しい戀の苦惱はあるが、それは、取り立てて表現力がある譯ではない。カルメンの毒に當てられた瞬間のドン・ホセに與へられた絶望に對應するやうな、デ・グリュー固有の戀愛の表現は、どこにも見當らない。オペラ全篇の基調は、序曲の、殆ど影のない愉しさにある。

 上演者は、プレヴォの原作の、野蠻な迄に激しい戀の情念と、マスネのオペラの享樂的な色彩との、まるで埋めやうのない懸隔に、惱まなければならない。ドキュメンタリー番組で、バレンボイムが、マスネに一定の評價を與へながらも、「非常に卓越した歌手二人を主演に迎へない限り、このオペラを今日やる意味はない。」と斷言してゐたのは、その意味である。マスネが見てゐるのは、當時のパリのオペラコミック座の觀客の嗜好である。しかし、ドラマそのものが孕んでゐる緊張は、さうした享樂性と對極的な激情だ。この極端な距離に、どのやうな夢を架橋出來るのかは、全く主役2人の力量に依存する他はないのである。(この項つづく)

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