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マスネ作曲《マノン》5幕 バレンボイム/ネトレプコ/ヴィラゾン/ベルリン國立歌劇場(2007.5.3~9)(3)小川榮太郎(2008年09月06日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年09月06日より)

 昨日發表分に關し、「ビゼーの《カルメン》が、メリメの原作の強烈な效果を、一層際立たせようと努めた」とした點がよく呑込めなかつたといふ讀者の聲があつたので、短く補説する。よく呑込めなかつたといふのは、その方が、メリメの原作を注意深く讀んでをられる證據で、つまり、原作《カルメン》の「強烈な效果」の過半は、ドン・ホセの強烈な野性にあるのに、ビゼーの《カルメン》は、ドン・ホセの性格を醇朴でひ弱なものに弱めてゐると、云ひたいのだらうと推測する。それはその通りである。だが、ビゼーによるその改變は、ホセの性格を弱める事で、原作に鮮やかに描かれてゐるカルメンといふ女性の、原色的な性格を一層際立たせるのが目的であつたと見ていゝので、事實、この改變によつてこそ、カルメンのカルメンらしさは、原作の簡勁な筆に劣らぬ鮮麗さで、浮かび上がつた。原作にないミカエラを創造したのも、無論、カルメンのカルメンたるゆゑんを輝かせる爲だ。ビゼーの《カルメン》が、「メリメの原作の強烈な效果を、一層際立たせ」たと、私の書いたのは、この點を指しての事である。

 オペラは文學ではない、感情の豐富な表現力では、文學と比較にならない直接性を武器とする代はり、性格の細密な描寫には、當然向かない。ドン・ホセの野性を原作のまゝ温存すれば、カルメンのそれとぶつかり合ひ、音樂は餘りに野卑になつたらう。オペラが、シェイクスピア、ゲーテ、ドストエフスキー級の、精妙で深刻な性格描寫を通じての人間洞察に達したのは、恐らく、全オペラ史を通じてモーツァルトに於てだけだらうと思ふ。ビゼーの改變は賢明だつたのである。

 だが、原作が《マノン・レスコー》となると、話は別だ。昨日書いたやうに、マノンといふ女性は、デ・グリューの情熱の影だからである。この女性をオペラの主役とするのは、いづれにせよ易しい事ではなかつたらう。マスネは、マノンを、小さな妖精のやうな惡女に置き換へることで、魅惑的な市民風の戀愛劇を練金した。10年後、同じ題材を取上げた若きプッチーニは、この作を、ごく普通の惡女の改悛物語に置き換へ、最後の、歌舞伎風の愁歎場―原作には全くない―に全てを賭けた。要するにプッチーニ節の魅力だけで、客を引つ張つてゐるのである。

 さて、このバレンボイム指揮の《マノン》を聽き始めて、まづ、第1幕から氣になるのは音樂の平板さだつた。だが、これは、マスネの原曲そのものゝ責任が半分、殘りの半分は、バレンボイムの指揮に歸せられる問題であらう。後でも取上げ直すが、バレンボイムは、この曲にも、ドイツ音樂的な語法、即ち音樂の構造的和聲的ドラマツルギーの側から接近し、さうした劇的な時間を創造しようとする。音樂は、徐々に厚みと悲劇性を持つて、重たい感銘を殘す事になるが、この曲の通例の魅力である筈の、華やかな舞踊性、享樂性は、艷消しされた質實な家具のやうな重みの中に失はれてしまつてゐる。例へば、CDになつてゐるパッパーノのレコードと序曲だけ較べれば、その違ひは歴然としてゐる。パッパーノで聽く《マノン》の小粹な綺羅びやかさと音樂全體が踊りに醉つてゐるやうな樂しさはどうだ。かつてのビーチャムみたいな素晴しいセンスである。その後で聽くバレンボイムの演奏は、まるでベートーヴェンのスケルツォである。

 これは惡口ではない。退屈どころか、實にこくのある演奏で、小粹さを吹き飛ばすくらゐ中身のぎつしり詰つた展開が續くのは、一種壯觀で、しまひには、私はバレンボイムの指揮の魔法にすつかり説得されもしたからだ。それに、歌手が脇も含め立派だし、演出も、《カルメン》の冒頭を意識して、從兄とマノンとの出會ひをミカエラとドン・ホセの出會ひに關聯づけたり、1950年代のパリといふ設定の舞臺や演技が、細部まで演劇的に濃やかで、飽きさせない。

今囘、演出を擔當してゐるパターソンといふ人に就ては、何も知らなかつたが、インターネットで調べてみた處、オペラ畑の人ではなく、ダンスの振付と舞臺や映畫の演出家のやうである。詳細を調べる興味はなかつたが、名前から出て來た項目を眺めてゐると、どうやら、「少年隊」―まだやつてゐるのだらうか? どうでもいゝ事だが、彼らの「二十歳」といふ曲は、カラオケでの私のオハコ(?)だつた、今考へれば、この曲のセンチメンタリズムには、20歳の男のものではないやうな女慣れした頽廢があつて、それが私を妙に唆のかしたものらしい。呵々―のライヴでも振付をしたことがあるさうだが、ともかく、《マノン》の演出は素晴しかつた。

 制作過程のドキュメンタリー番組で、パターソンは、オペラ演出に就て次のやうに語つてゐる。大いに啓發的だと、私には思はれた。

「オペラ演出は初めてなので、35作程見て研究してみたが、必ずしも滿足ゆかなつた。歌手の演技が不自然な場合が多い。彼らの關心は、專ら音樂上の表現だけに注がれ過ぎてゐるが、自分の考へでは、オペラでは、音樂と演技とは對等な關係にある筈だと思ふ。」

 平明な考へだが、演出優位の時代といふ合言葉の亂舞の中、思考停止に陷つてゐたオペラ界の誰もが、近年まで、殆どまともに取上げたことのない思想ではなからうか。90年代以降の讀み換へ演出に就て、私は、しばしば批判してきた。こゝでそれを詳しく繰返すつもりはないが、これを主導してきた演出家らの言ひ分は、「オペラでは、音樂と演出とが對等だ。」と云ふ一語に盡きる。しかも、それは、演出が、作品を丁寧に讀み込むといふ意味ではなかつた。演出家の心は、作品そのものにではなく、專ら聽衆に、或いは音樂ジャーナリズムに向いてゐた。聽衆を挑撥する要素を、作品の外側から持込む事への腐心だけが感じられる場合が餘りにも多かつた。讀み換へ演出が、モーツァルトやヴァグナーに就て、新しい發見を齎した例は、皆無に近かつたのではあるまいか。

 ブーレーズ=シェローの《指環》がさうした演出傾向の嚆矢だとすれば、彼らの仕事自體には、はつきり、意味も成果もあつたと云ふべきだらう。この演出の定義した問題を亂暴に要約してしまへば、《指環》の思想は、音樂の側にあるのか、臺本の側にあるのか、と云ふ事だ。莊嚴な音樂、偉大な指揮者、ヘルデンテノール、神聖なバイロイトの祝祭大劇場……さうした要素は、實は、假象で、臺本に見られる、神々の安つぽいブルジョア根性や、ヴァグナーの後急激に訪れる機械文明や全體主義の20世紀の豫兆こそが、作品の「思想」なのではあるまいかといふシェローの演出の方向性は、秀逸な讀みと迄は云へなくとも、批評と呼ぶには値するものではあつた。だが、この《指環》が拓いた道は、かつてのピカソや12音技法が拓いた道と同樣、ガラクタ共が、ガラクタな仕事をする口實を與へただけであつたやうに、私には見える。今日迄の、大半の讀み換へ演出には、シェローの場合のやうな、讀みの批評性より、センセーショナリズムを當込む以外能のない演出家らの、凡庸な資質とテクニックの低さとが、目に付くものが殆どだ。意味がある挑撥だから騷ぎが起るのではない。無意味な挑撥だから、怒りが爆發する。なるほど、毒にも藥にもならない傳統の黴の中で沈滯してゐるよりは、怒りを掻きたて、騷動を卷起す方が、何がしかの元氣は感じられ、商賣にもなるのは、事實だらう。だが、挑撥に實質がなければ、それが飽きられた時には、今度は、オペラそのものがジャンルとして沈沒してしまふ。この種の安易な挑撥は、携はる人々の眞面目で地道な努力の傳統をも、また、杜絶させがちだからである。

 演出といふのは、そもそも黒子であつて、我が物顏にしやしやり出て來るべき筋合のものではない。演出そのものが露骨に目に付いた時、人は、作品を發見するのではなく、作品から分斷され、疎外される。人は、オペラを忘れ、音樂を忘れ、歌手や指揮者やオケを離れ、演出そのものに目を凝らし出す。

 オペラで、音樂に内在する論理が絶對的な位置を占めるのは、誰も否定出來ないことだ。《魔笛》や《トリスタン》を音樂拔きの芝居で上演して、興行が成立するかどうかは考へてみるまでもない。シェイクスピアを偏愛したヴェルディの《オテロ》や《フォルスタッフ》の臺本が、原作に代はり得る戲曲作品であるかどうか、考へるまでもない。原作のまゝでは音樂で劇を生めないから、オペラ用の臺本に直したので、劇的な論理が、オペラと演劇ではまるで違ふのは、今更書くのもばかばかしい事だらう。それが自明であるならば、オペラ演出に可能な事柄の範圍は、自づから決まつて來る筈だ。上演の瞬間に進行する音樂的な論理に内在して、その論理をどう演劇空間に投影するかといふ發想から、決し逸脱しない事が、オペラ演出の場所であつて、それ以上で以下でもなく、それでもなほかつ、刺激的で生彩ある演出の新しさを狙ふのは、充分可能な筈である。

 パターソンが云つてゐた事は、さうした意味での、近年流行の演出主導の思想とは正反對の、極めて現實的で現場的な演劇人の思想だ。彼は、オペラで、音樂と對等であるべきものとして、演出そのものではなく、歌手たちの演技を擧げたのである。オペラ歌手の演技が疎かになりがちなのは、恐らく多くの人が感じてきたことだらうが、實際に、それを演出の主軸にしたのは、オペラがおかれてゐる現状に餘り同情のない部外者でなければ、難しい事だつたかも知れない。

 尤も、彼が、演技指導上で試みてゐることは、ごくオーソドックスな演劇的なリアリズムに過ぎない。だが、それだけの事が、何とこゝでは、效果的である事だらう! 舞臺俳優竝の、歌手たちの演技の精妙さが、音樂の感銘に、何と、溌剌たる刺激と、豐かな情感とを加へてゐた事か! オペラ演出の是非を巡る百の議論の暇に、演劇上のリアリズムの徹底を圖れば、それだけでもオペラの感銘に新しい光を當てることが出來る、いはばこの、恐ろしく單純な考への成果は、少くともこの舞臺で觀る限り、壓倒的である。そして、この演劇性に關しては、ネトレプコとヴィラゾンでなければ不可能だつたとは思へない。根つからの舞臺人である一流のオペラ歌手達の多くは、きちんと指導しさへすれば、間違ひなく一流の俳優でもある筈だ。その意味で、パターソンの作品解釋如何以前に、演劇をオペラの中できちんと追求した點こそが、觀念的で珍妙な演出が新しい可能性と稱して蔓延る愚劣な状況下では、非常に重みのある試みだつたのだらうと思ふ。いつも通り、議論は蛇行して、前に進まなかつた。後、2囘紙數を頂戴したい。明日は、演奏の具體的な批評に入らうと思ふ。(この項續く)

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