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マスネ作曲《マノン》5幕 バレンボイム/ネトレプコ/ヴィラゾン他/ベルリン國立歌劇場(2007.5.3~9)(4)小川榮太郎(2008年09月07日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年09月07日より)

 幕でまづ耳をそばだてさせたのは、ヴィラゾンのデ・グリューだ。音樂的な書法が充實してゐる譯でも、インスピレイションに溢れてゐる譯でもない最初の二人の出會ひの場面から、全力投球の歌唱である。これだけ熱の籠つた、會場を壓するテナーの聲は、スピーカーを通じてでも、見間違ふことはなからう。聲が強いだけでなく、乘せてゐる感情のエネルギーが凄じい。オテロではあるまいし、最初からこれでは暑苦しくさへ感じられたが、さうした文句さへ、音樂的壓の強さで封じられてしまひさうだ。

 ドミンゴの祕藏子ださうである。實際、聲の質は、時に、ドミンゴと錯覺する程似てゐるが、ドミンゴのやうに、計算され、整理された役作りの氣配は、ヴィラゾンにはない。體當たりに見え、體當たりに聽こえる。だが、よく考へてみれば、レストランで、ふとマノンを見てしまつたことが、デ・グリューにとつては、雷に打たれたやうに絶對的だつたからこそ、その後の破滅的な悲劇は生れた譯である。出會ひの部分の音樂に、さうした絶對的な一囘性がないのは、マスネのせゐであつて、ドラマ自體は間違ひなく強烈な衝撃を要求してゐる。ヴィラゾンは、この出會ひの痛い程の歡喜の衝動を、聲の力だけで生み出さうとしてゐたといふべきなのだらう。すると、この、單純な熱血漢に見えるヴィラゾンが、實際には、極めて緻密な作品理解に立つタイプの歌手であるとも思はれてくる。そして、その答へは、全曲を聽いて、ヴィラゾンの熱唱が、熱唱のまゝ、尚且つ、單調さにはまるで通じてゐなかつた事を思へば、明かな筈である。

 恐らく、ヴィラゾンは、ドミンゴのやうに知的に整理された人間像の構築とは異なる筋道を辿りながら、役柄に到達する。この1作だけで、その筋道が何かをはつきり云ふのは、私には難しい。しかし、この人は、音樂から直かに吹込まれたやうな衝動を歌ふやうでゐて、その實、激情の波動は、大變細やかだ。息詰る感情上の葛藤の大波が、擴大鏡で見せられるやうに、全て聲の色合ひに映ずる。それは、樂譜の論理に忠實になり過ぎてゐたこの30年程の、優等生風なオペラ歌唱にはない、原始の、近代オペラが成立した生々しい聲の、再現を思はせる一方、感情の變化には、大變鋭い、細かい、新しさもあるのである。

 3幕の、教會で、デ・グリューは、マノンと再會しての苦惱を歌ふ。魂の牢獄を聯想させる教會の鐵格子から身を乘出しながら、マノンへの愛を、殆ど呪ふやうなヴィラゾンの歌唱は、眞實味に溢れてゐる。音樂は樂譜の中にはない、歌が、魂から迸り出るのを、樂譜が與へた「形」が、辛うじて助ける、それが、オペラがどれ程複雜になつたとしても、聲の藝術としての、その本當の姿であらう。マスネの與へた「形」は、古典として殘るやうな上等なものではなかつたが、迸りの契機さへ與へられゝば、天才歌手が、そこに本物の情熱を點火するのは、容易なのである。今日の歌手の多くは、樂譜の「形」を追ふばかりで、自分の内側から迸る魂の叫びを封印してしまふのが、當たり前になつてゐる。歌手の側が、すつかりブッキッシュになつてしまつてゐる爲に、演出がのさばつたといふ事情もあつたらう。今日、主要なオペラハウスでは、どんなスター歌手よりも指揮者に與へられる喝采が一番大きいといふ傾向にある。かつてのトスカニーニやカルロス・クライバーではあるまいし、今日の大抵の指揮者が歌手を食ふやうでは、その歌唱の焔が如何に乏しいかといふ淋しい證明に過ぎなからう。ヴィラゾンの成功によつて、歌手の壓倒的な感情量とそれを實現する技倆の新時代の訪れを期待してはいけないだらうかとさへ、私は思つた。

 さて、原作では、最初から、享樂的な性格を危惧され、修道院に送られる事になつてゐるマノン・レスコーだが、今囘の演出では、素朴な女學生風に登場する。私は、最初眞つ先にミカエラを聯想したが、解説などによると、ネトレプコの衣裳や演技は、幕毎に、オードリ・ヘップバーン風(1、2幕)、エリザベス・テーラー風(3幕)、マリリン・モンロー風(4幕)、囚人になつた處では、ジャンヌ・ダルク風(これは誰の出演した映畫を模したものか、映畫の知識に缺ける爲、分らなかつた。5幕)と、映畫を模倣した變身振りだとの事で、これは、なかなか樂しめた。本當に偉大な作品では、うるさかつたらうが、この作では、ネトレプコのお色直しへの關心が、作品への關心をつなぐ助けになつてゐたからだ。現場感覺に溢れた著想と云ふべきだらう。2幕の下着姿のシーンは、私の記憶の誤りでなければ《ローマの休日》を、4幕、モンロー風の金髮で登場するシーンの方は、間違ひなく、イヴ・モンタンとの共演映畫《戀をしませう》を模してゐた。私は映畫には概して無知だが、映畫好きがあの舞臺を見たら、樣々な場面の換骨奪胎を澤山發見出來たのだらうと思ふ。作品そのものゝ印象の弱さを、樣々な本歌取りで、補強するといふ手は、充分な技巧を伴はないと、かへつて白けるが、演技、演出ともに、その點、堂々の及第點で、邪氣なく愉しめた。

 ネトレプコ扮するマノンは、最初の幕では、人生を樂しみたいと考へてゐるごく普通にお茶目なおぼこに過ぎない。同棲中の彼女は、下着姿で登場して、阿呆な男性觀客を“惱殺”するが、まことに可憐で、男を裏切る惡女のどぎつさは全くない。誘惑に負けてデ・グリューを賣る自分に傷ついてゐるのは、彼女自身である。これは、プレヴォの原作とは味はひが違ふ感傷的なパーソナリティだが、マスネが加へた感傷であつて、今囘の上演は、それを素直に、今日風のテイストでなぞつてゐるに過ぎない譯だ。かうして、前半のマノンが、ミカエラを聯想させ、オードリー風であるのは、マノンをカルメンと竝ぶ惡女と見る解釋への「讀み換へ」だ。繰返しになるが、マスネがプレヴォを讀み換へた處を、演出が徹底したのである。この徹底は、マノンの本質的な無垢への、同情或いは危惧の感情を聽き手の胸に呼ぶ。この無垢は、カルメンの輝かしい多情とは全く異質のものだ。神父になつたデ・グリューの元に撚りを戻しに駈付けても、そこには、水のやうに清冽な抒情があり、強烈な女の毒はない。毒に當てられるドン・ホセとは違ひ、デ・グリューは、この女の本質的な純情にほだされる。マノンに本質的な無垢がなかつたならば、牢獄の死の場面での改悛は意味をなさない筈である。

 ネトレプコの歌唱は、全く群を拔いてゐる。どんな詰まらない一節でも、彼女の聲が觸れれば魔法のやうに引き締まつた美の光澤を放ち始める。聲を用ゐて、役柄や劇的な進行を表現してゐるのではない。この人は、聲の内部に、既に、ドラマを藏してゐる。求心力がありながら、清楚で、しかし、強烈な表出性を孕んだ聲は、私には、シュヴァルツコプフを聯想させた。尤も、これには、異論もあるだらう。

 歌唱と竝び、その演技も素晴しい。とりわけ、最期の場面でのぼろぼろになりきつた囚人マノンの悲慘さと虚ろさ。瀕死の中で、やうやく歌ふ白鳥の歌の演技は、眞に迫つてゐて、音樂がなかつたとしても落涙を禁じ得ない程のものだ。呟きなのか、歌なのか、分らない程の苦しい囁きを、やつと吐き出して、事切れる。いはば、徹底した演劇的リアリズムだ。殘念だつたのは、その後、死んだマノンを抱へたデ・グリューが、後ろ向きにのそのそ歩いてゆくエンディングで、これは、立つて前を向いたまゝ、幕を引いた方が良くはなかつたか。一緒に見た家内も、同意見だつたが、大方の感じ方はどうであらうか。長引いたが、次囘、バレンボイムの指揮に觸れて、をはりにしたい。(この項續く)

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