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チャイコフスキー:歌劇《エフゲニー・オネーギン》小川榮太郎(2008年09月30日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年09月30日より)

[出演]ペーター・マッティ(エフゲニー・オネーギン)、アンナ・サムイル(タチアナ)、ヨゼフ・カイザー(レンスキー)フェルッチョ・フルラネット(グレーミン)他
[指揮]ダイニエル・バレンボイム
[演奏]ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団
[収録]2007年8月25、26、29日ザルツブルク祝祭大劇場(ザルツブルク)

 私は音樂愛好家である前に、日本國民であるから、今日は、最初に少しだけ床屋政談をする。麻生首相の所信表明演説をつぶさに讀んで、その劃期的な政治言語の出現に、痛く感動したからである。總花的、儀式的な役人文書に、首相の個性を少し添へるといふ從來のやり方と、根本が、逆に出來てゐる。麻生氏の言葉の側から發想され、決斷され、語られ、それを、今日の政治の公式の言語とバランスするといふ作られ方なのである。立派な事を云つても中身が伴はなければ仕方がないといふが、まづ、立派な言葉を出してみるといふ事は、政治の重大な行動なのである。政治内容に於て劃期的だつた安倍元總理でも、所信表明演説に、これだけ、果斷な政治言語、政治的態度の率直な表明を盛込む事はなかつた。報道ステーションを見たが、これ程「新しい」所信表明演説を、總合的に分析した上で、批判するのではなく、「民主黨への對抗心」といふ兒戲に等しい下劣な讀みに矮小化して嘲笑しようとしてゐる。演説をずたずたに切り裂いて、反麻生を煽つてゐる。わざわざ演説全文を熟讀する國民は少ないだらう、テレビが、かうした意圖的な誤報を平然と流すのは、私の考へでは、恐ろしい、言論彈壓のファシズムである。演説の要約ではなく、完全な歪曲だからである。これが、報道として許されるならば、どんな危險な編輯も許されることになるだらう。民主黨の見解も、土俵の外から、これに難癖をつける萬年野黨體質をまるで脱してゐない。土俵に乘つて、議論の上で、批判するのではなく、所信表明にふさはしくないといふ切り捨て方をする。麻生氏は、積極的な議論を呼び掛けてをり、その論法は、極めて正當なものだ。氏のポレミークな姿勢には、論爭の爲の論爭の氣配は全くなく、デモクラシーの基本を押さへた、日本では異例の成熟したものがある。ところが、民主黨は、その議論の呼び掛け方がなつてゐないといふ神學的な御託宣を喚いてゐる。國家觀が微塵もないといふ。とんでもない、麻生氏の議論の組立方自體が、國家觀になつてゐる。平易な言葉ではあるけれど、政治思想の躍動がある。吃緊の課題から語り出してゐながら、極めて堂々たる國家觀に溢れてゐて、大袈裟に云へば、その大膽果敢さに、のけぞる程驚いた。

 私は、今日晝間、江藤淳の『小林秀雄』を熟讀し、中原中也の詩集と『惡の華』を熟讀してゐた。そのまなざしを向け直して、なほ、價値のある言葉を麻生首相の所信表明に發見したといふ事を、一個の文學者として、こゝに言明しておく。

 さて、《オネーギン》である。前囘は、名盤選び風の眞似事をやつて、お茶を濁した格好だが、では、さうした歴代の偉大なウィーンフィル振りと比較して、バレンボイム指揮のウィーン國立歌劇場管弦樂團は、このDVDでは、どう鳴つてゐたか。オネーギンのオケパートとしては、私の聽いて來た限り、空前の雄辯さを引出してゐると思はれる一方で、クライバーの時と同樣、ウィーンフィル特有の底光する艷、太いワイパーの底鳴りするやうな低音パート、地底から沸上がる噴火のやうな爆發力、それでゐて、目が痛くなる程眩ゆい黄金色の光の亂舞、さういつた要素は、バレンボイムの指揮では、消えてしまふ。

 バレンボイムがベルリン國立歌劇場とやつた前々囘來日のシューマン《第4》で、私は、その和聲感の流動し續ける眩ゆさに息を呑んだ事がある。モネの睡蓮ばかり70點ばかり集めた連作展を見た時の會場の搖らぎを思はず聯想した。あのシューマンも、また、モネの睡蓮同樣、ホールの全體が、和聲感の豐かな色彩で搖らぎ續ける光と虹のやはらかい無限の反響のやうであつた。それは、あんまり迅速な夢なので、つひに、色と色とが打ち消し合ひ、極端に緻密な平衡状態へと、鑑賞者の心を蕩盡してしまふ。……

 バレンボイムは、音の論理を推し進めてゆく先での、そのやうな流動と靜謐の表現に到達した人だが、ウィーンフィル獨特の響きと言はれるものは、どうやら、寧ろ、雜多な夾雜物を全て棄てずに、整理もされずに、生れてくる調和のやうである。前囘擧げた指揮者達は、ウィーンフィルから、さうした猥雜さを除去せずに、寧ろ、その亂反射を進んで受け容れながら、自分の音樂をやる事に成功した人達だつたやうに思ふ。今日の《オネーギン》を聽く限り、バレンボイムは、ウィーンフィルのさうした音響感覺には必ずしも共感してゐないやうだし、ウィーンフィルの側も、フルトヴェングラー、晩年のカラヤン、やティーレマンの時のやうには、バレンボイムの指揮に、まだ醉つてゐないやうだ。大指揮者バレンボイムの藝術は、いよいよ高峰を登攀する氣配であるけれど、ウィーンフィルに固有の音樂の表情は消えて、一面が、バレンボイム・トーンで覆はれてゐるやうな印象であつた。

 無論、これは、批判ではない。ウィーンフィルの音樂的な感度は拔群で、柔軟である。バレンボイムの指揮の求心力に乘りながら、オペラ上演の中で、音樂的な感銘の中心點であり續けてゐたのは、やはりさすがなのである。バレンボイムのオペラ指揮は、いつものやうに、歌手にとつては、危險な挑戰状だつたし、その事を充分心得ての、こゝでのウィーンフィルの奏樂であつたと云へるからだ。

 バレンボイムの、近年のオペラ指揮では、オーケストラパートが、大抵の歌手よりも深く充實した歌を歌つて憚らない。綺羅びやかなカラヤン、疾走しつゝオペラの快樂の化身となるクライバーが、その實、音樂の實質的な論理の點では、オペラの伴奏者に徹してゐるのに對し、バレンボイムは、事實上音樂の、また、歌の徹底的な主催者となる。音樂の豐饒な祭りのどよめきは、全て、彼のタクトから溢れ出る、生演奏でこの人のオペラを聽いた人なら、この感じは、分つてもらへるだらう。前囘取上げた《マノン》では、彼の太い、粘る音の津波は、作品のガラス工藝のやうなきらびやかさとやゝずれてゐたが、《オネーギン》では、この人の、誰憚るところのない大つぴらなドイツロマン派的グランドマナーの歌ひ振りは、如何にもふさはしい。

 《オネーギン》は、私の最も好きなオペラの一つで、まつたうなロマン派オペラとして、これ程、美しく、交響的な緊密さを持つたオペラは、さうさうないと思ふが、ロシア語原作の爲だらう、上演もレコードも少ない。昔、トスカニーニがレパートリーにしてゐたと記憶する。それ以外の大指揮者では、どんな人が、レパートリーにしてゐたのだらう。春に東京オペラの森での小澤征爾の指揮には、殘念ながら、嚴しい感想を書かざるを得なかつたが、小澤がこの作品を長年、愛着してきた事が、最近上演の機會は増えつゝある流れを作つた契機の一つだとすれば、氏の功績は大きいと言はなければならないだらう。先年出たゲルギエフ指揮メトロポリタン歌劇場のDVDは、演出と主役2人が優れてゐたが、このバレンボイム盤は、脇と指揮者、オケが明らかにゲルギエフ盤の遙か上を行く。その意味で、《オネーギン》のレパートリー化の大きなきつかけとなれば、嬉しいことだ。

 さて、演奏であるが、まづ、前奏曲が、溜息が出る程美しい。何といふ憧れだらう、小さな胸が、祕められた戀に泣いてゐる、さうした小さな戀の可憐さへの、チャイコフスキーの共感に、何と纖細に反應する指揮でありオケだらう。小さな起伏、音の斷片の全てが溜息であり啜り泣きでありながら、タチアナの生き方に應じた、節度が、美を一層引立ててもゐる。昨秋の來日公演の《トリスタン》3幕の前奏曲で、傳説的なフルトヴェングラー盤を凌ぐ程の感情移入を聽かせたバレンボイムである。この《オネーギン》でも、ロマン派の纖細で深刻な感情領域へのバレンボイムの切込みの深さは、感情の細部を穿つて見事である。

 歌唱も素晴しい。1幕では、老乳母役が、典型的な演技、歌唱を披露してゐて、胸を打つ。タチアナ役サムイルの絶唱もいゝ。オネーギンはマッテイで、期待したが、これはやゝ疑問が殘る役作りである。この人には、獨特のヒューマニティの優しい香りがあつて、タチアナを拒否する冷さが出ない。拒否しながらも、それがタチアナを傷つける事を氣遣つてゐるやうな雰圍氣がありありと出てしまふのである。マッテイは、恐らく、私生活でも、持てる男なのだらうが、要するに、女を傷つけるのが、苦手なたちなのではあるまいか。だが、それでは、オネーギンは勤まらぬ。ゲルギエフのDVDでのホロストコフスキーが、靜かで冷い、ロシアの餘計者―ニヒリスト―としての性格を明瞭に際立たせてゐたのに較べると、これではタチアナは傷付くまい。据膳を食はなかつた男の、珍しい程の恩情の配慮に、長じるに連れて感謝が深まりこそすれ、心の傷として記憶される事はなささうに思はれる。歌唱としてはマッテイの方が上と感じるが、役作りでは、やゝ失敗ではなかつたらうか。

 今囘の演奏が、全體として、際立つて面白くなつてくるのは、第2幕からだ。ワルツはウィーンフィルとは思へない實に野暮な演奏振りで、これは、後で段々鮮やかさを増してゆく事を考へれば、當然、わざわざ狙つたものだらう。オーケストラは、第2幕を通じて、悲劇の重たい音色へと、急速に變貌してゆく。舞踏會の猥雜さと、友人二人の悲劇への緊張も、演出以上の管弦樂パートでの細かい表情と音色とが先導してゐる。ポロネーズから、2人の喧嘩の場面への強烈な追込みは素晴しい。決鬪を前にしたレンスキーの絶唱は、勿論、最大の聽かせ處だが、ヨゼフ・カイザーの充分な感情移入は、最高の出來だつたし、二重唱から決鬪に掛けてもレコード、實演ともに含めて、私の聽いた最高の演奏と言へるだらう。歌唱の質は申し分なく、オケのパートの雄辯も、ヴァグナー的な高みに達してゐた。

 最終幕での、有名なポロネーズの堂々たる生氣は、何か、廢虚で響くやうな空虚さを湛へ、舞臺はゆらゆらと搖らぐガラス張りで、その空虚さを倍加する。全體に、演出は、指揮者の音樂的な讀みにかなり寄り添つて、協力しあつてゐるとの印象が強い。私は、詳しい事情は分らないが、バレンボイム指揮の最近のオペラでの演出は、指揮者の意嚮が、他の人達よりも、遙かに強く主張されてゐるやうに思はれる。音樂が全體を主導してゐるのである。

 それにしても、このオペラの最終幕が、こんなに充實した音樂だつたといふ事を、私は、今日のDVDで初めて實感した。グレーミン公爵役のフェルッチュ・フルラネットの歌唱が、他の、いづれも現代を代表する出演者らの名唱を吹き飛ばす程に見事だつたからである。年老いた夫の役柄で、老いの感傷の、秋の日差しのやうなやはらかい淋しさの中に、情熱もまだ生々しい間歇泉のやうな迸りを見せる、さうした相反した感情が矛盾せずに同居してゐる。熱い共感で胸が一杯になつたのは、思ひがけなかつた。

 このオペラはグレーミンに感動する話の筈ではない筈だ。だが、音樂の發生は、歌唱からなのだ。あらゆる作曲家も、根つからの偉大な歌手の聲の表現力にはつひに適はない。フルラネットの絶唱は、重要ながら端役であつただけに、その當たり前の眞實を、呆れる程の確からしさで、私に思ひ出させてくれた。その後で、敗慘のオネーギンを歌ふマッテイも、負けてはならじと、渾身の歌で、締めくくつてゐる。

 《オネーギン》解釋の王道を行く名盤の誕生である。(この項了)

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