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バレンボイム指揮のニューイヤーコンサート ―稀に見る音樂的充實(2009年01月02日)

ニューイヤーコンサート ウィーンフィルハーモニー管絃樂團 指揮:ダニエル・バレンボイム(NHK教育による實況中繼。於ウィーンムジークフェラインザール)

 あけましておめでたうございます。讀者の皆樣の新年が良き年になりますやうに。平安と希望を飽くまでも信じ、素晴しき事の實現できる一年でありますやうに。クラシック音樂の1年が、音樂的な中身の濃い1年でありますやうに。多くの野心的な試みや新しい才能が開花し、一方年齡を重ねた音樂家には、圓熟の季節が訪れますやうに。何よりも、音樂が今年も一層多くの方にとつて、喜びの盡きぬ泉でありますやうに。

 今年は、家内と二人の靜かな元旦だつた。正月は家族や友人と賑やかに過ごしたい方だが、去年は家内に任せてゐる家業が他事で、夫婦の暮しの擦れ違ふ事が多くかつたのである。朝は、近所の神社に初詣でに出掛け、産土の神樣への御禮と御加護のお祈り、歸宅後、御屠蘇代りに酒を飮んだが、晝過ぎには眠くなつて、床を延べた。いはゆる寢正月だが、こんな正月は生れて始めてだ。私は休みが苦手で、朝から仕事―今なら原稿―に掛り、散歩以外は、夕方まで書き物か讀書かに沒頭してゐないと落ち着かない。(その後は言ふまでもなく晩酌で、これも高熱を出した時以外は缺かさない。)意を決して、元旦くらゐぐずぐずしてみた譯なのだが、やはり落ち着きは惡かつた。夕方、近所にあるエクシヴ伊豆高原のラウンジで、ゆふぐれ時の伊豆七島を眺めながら、仕事や原稿の話をする。最近、空氣が澄み、大島など、山襞が鮮やか過ぎる屈曲を見せるばかりか、家竝さへ見えさうな、その上を、紫紺の幻想的な雲が浮かんでゐる。氣が附いたら6時過ぎ、ニューイヤーコンサートは7時だ、急ぎ歸宅して、晩酌へと萬端を整へてテレビの前に坐つた。

 ……バレンボイムが初登場となるニューイヤーコンサートは、期待を裏切らず、音樂的に卓越した出來榮えだつた。カラヤン以來の出來になるのではないかと豫想してゐたが、實際、あれ以來、集中して最後まで聽き通せたニューイヤーコンサートは、私の場合、今囘が始めてである。

 土臺、ウィンナワルツは、踊る爲の實用音樂なので、坐つて2時間も聽き通すのは、よほど、演奏に中身がなければ、耐へられたものではない。私の場合、日頃は、氣晴しに《かうもり》序曲や《皇帝演舞曲》など、比較的重たいものを1曲取り出して聽くのが關の山だし、それだつて稀。その上、指揮がフルトヴェングラーだつたり、チェリビダッケやクナッパーツブッシュだつたりと、ウィンナワルツ好きなら眉を顰めるやうな、重厚壯大な演奏で聽くのが、相場に決まつてゐる。例外は、カラヤン晩年のニューイヤーコンサートの實況録音で、これは、たまに通して聽く事がある。音色は、黒光するやうな強烈な光澤を放つ一方、流麗さも、細部への配慮もかなぐり棄て、剛直で不器用な威嚴だけで、押し通す。尤も、底にはしぶといユーモアが流れてゐて、いはゆる「全盛期」とされる70年代までのレコードからは消えてゐた個人的な聲が、體の不調やベルリンフィルとのトラブルに疲れた生活の中で、寧ろ、はつきりと呼びさまされてゐるやうである。

 今日のバレンボイムの指揮は、完全に彼流儀の濃密で和聲的で劇的な音樂だつたが、今擧げた人達のやうな、ワルツとしてのルール違反はない。それは、良くも惡くもバレンボイムといふ人の節度だが、節度の中で、音樂の可能性を味はひ盡くせる處まできたのが、最近のバレンボイムの成熟であるとも言へる。とにかく、これだけ音樂として丁寧に注意深く、しかも、精彩に富んで演奏され續けたウィンナワルツは、ちよつと思ひ出せない。

 カラヤンを例外とすれば、例年のニューイヤーコンサートでは、指揮者が概してオケに下駄を預けてゐ、しかも、指揮者自身のアウラが弱い爲、單に預けた下駄をオケに奪はれたまゝ《ラデツキー》の盛上がりで御茶を濁してゐる演奏會が、大半だと思つてゐる。アーノンクールのやうに主張ははつきりしてゐても、大管絃樂を指揮する基本的な能力に限界があれば、やはり退屈は免れない。10年以上前のクライバーの時はさすがに期待して聽いたが、全盛期を過ぎてをり、あの、シャンペンのやうなリズムの輝きがまるで消えてゐた。傷ましさと退屈に驚きながら、どこかで奇跡が起きるかと期待して、たうとう最後まで面白くなかつた記憶が殘つてゐる。その意味では、ニューイヤーコンサートは、まともな音樂會といふより、お年玉のやうなイヴェントで、例年、批評の對象とは言ひ難かつたし、勿論、さういふ樂しみはあつていゝのである。

 バレンボイムは、プログラム最初の《ヴェネツィアの一夜》序曲から、注意深い濃密な音と、音樂的な集中力、やゝ不器用に粘りながら底力の強いリズムで、聽き手の耳を逸らさない。これは、イベントではなく、はなから音樂會である。最近の彼の指揮では、《マノン》を思ひ出した。鷄肉を割くのに牛刀を持つてする節はある。音樂が要求してゐるきらびやかな細工物のやうな優美よりも、音樂的なドラマが大きくなり過ぎる。だが、作品は、それに耐へられず悲鳴を擧げてはゐない。バレンボイムの豐かな和聲感に、曲も又、積極的に協力して、己れの可能性に改めて驚いてゐるやうに聽こえる。思はず味はひ盡くしたくなる音樂的感興が、屈託ない幸福なさざ波のやうに、次から次へと寄せてくる。

 テレビからスピーカーに囘した音で聽いてゐるので、餘り確かな印象を語ることは出來ないが、この人のリズムの力は、最早、搖ぎもなく本物の巨匠のものだとは、はつきり得心が行つた。彼の手にかかれば、音樂は、たゞそれだけで、礎石の磐石の確かさの上に、生命力の横溢と自由な搖らぎを歌ひ出す。響きは、やや厚ぼつたく、暖色で、外側から磨く事はしないし、整理もしてゐない。寧ろ、團員が相互に聽きながら、自然に親和し、いつの間にか蜜のやうに甘く濃い響きに熟成されてゆくと言つた鹽梅で、後半程輝きを加へる。

 アンネンポルカのやうな曲では、 優美で羽毛のやうな輕やかさが、幾分損はれるし、カラヤンのやうな底光する光澤が懷かしくなる時もある。が、《南國のバラ》や《天體の音樂》になると、そのうねるやうな歌は、殆ど聽いた事のない程豐かなスケールに達して、私はかつてウィンナワルツで味はつた事のない正眞正銘の陶醉を經驗した。快速のポルカも、たゞ爽快なだけではなく、味の濃い推進力が聽かれたが、有名な《雷鳴と電光》など、本當はどのくらゐのダイナミズムで鳴つてゐたのだらう? カラヤンのやうに重たいリズムと、打樂器の亂打を浴びせる強烈さはなかつたやうだし、クライバーの躍動とも違ふが、音樂が横溢する幸福感がある。これが、レコードでどんな音になつて仕上がるかは、樂しみである。

 《ジプシー男爵》や《ハンガリー萬歳》など、ハンガリーを重んじたプログラムは、ヨーロッパ邊境への視線を感じさせる。さうしたメッセージの出し方も、これだけ影響力のあるイベントでは容認されるだらうし、演奏も素晴しい。たゞ、今日程眼の詰つた大演奏ならば、やはり《ジプシー男爵》よりは、《かうもり》序曲くらゐを聽いて置きたい處だつた。

 プログラム最後は、ハイドンの《告別》のフィナーレが、記念年にちなんで、始めて取上げられた。實際に樂團員が皆退場してしまふ演出に會場は沸いてゐたが、少し眞面目な話をすれば、このハイドンは、やはり、バレンボイムの成熟を反映して、和聲的、構造的な展開が、音のドラマとなつて、間然する處のない名演だつた事も忘れまい。つひ先だつて、ムーティ指揮のウィーンフィルで、宛て先不明の、茫漠たるハイドンを聽かされたばかりなので、音樂の方向感覺に對する、バレンボイムの非凡な鋭敏は、野暮を承知で、あへて指摘しておきたいのである。それこそ、記念年にちなんで、パリセットやロンドンセットのレコードを收録する豫定はないのだらうか。フルトヴェングラーにも、チェリビダッケにも、殘念ながらハイドンの纏まつた録音がない。クレンペラーやカラヤンのハイドンは、重量感や精神的な意味での尊嚴は、古樂派の演奏よりも、ハイどんの文化史的位相に正しく對應してゐると考へてゐるが、惜しむらくは、重みで押す傾向が目立ち、和聲的な俊敏さには缺ける。バレンボイムによる纏まつた録音でハイドンが聽ければ、どんなにか嬉しい事だらう! 笑ひが實際に零れるやうなユーモアと、音樂の大きさとが兩立し、重みの中にあらゆるやはらかいニュアンスに缺けてゐない最近のバレンボイムの指揮に、ハイドンは素晴しく似つかはしく思はれるのだが。

 樂壇員からの挨拶に先立ち、バレンボイムが、世界の平和と竝び、中東に公正をと訴へた後、恆例により、《美しき青きドナウ》と《ラデツキー》。これは、―フルトヴェングラーが振るとなれば話は別だらうが―誰が振つても、代はり映えする音樂ではない。せつかく年頭に幸せな氣分にさせてもらつたのだ、ウィーンフィルには、この《ドナウ》と《ラデツキー》は、いつも通り、最高に素晴しかつたと讚辭を呈しておかう。(この項了)

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