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ダニエル・ハーディング指揮 新日本フィルハーモニー管弦樂團(2009年03月09日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年03月09日より)

ドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》 ラベル《ラ・ヴァルス》 ベルリオーズ《幻想交響曲》

ダニエル・ハーディングの指揮に期待してゐたのだが、感銘は薄かつた。

 ハーディングを始めて聽いたのは、3年程前、マーラー・チェンバー・オーケストラとの來日の時の事だ。私は、その時のブラームスの《第2》にノックアウトされたのである。NHKホールで小さな編成のオーケストラである、鮮烈な演奏などといふものではなかつた。チェリビダッケを思はせる程ゆつたりとしたテンポの中で、絶えずしなやかに歌ひ續ける抒情が、内向する緊張と兩立してゐた。音量やテンポに依存しない、本物の音樂言語だけで、素晴しいクライマックスを築いてゆくハーディングの内なる音樂の豐かさに、私はすつかり驚嘆してしまつた。この喜びは如何にも強かつたので、翌日のモーツァルト3大交響曲のプログラムも、都合を付けて出掛けたが、これはマニエリスムの極致で、モーツァルトよりも指揮者の手つきが氣になるやうな演奏。ブラームスのやうな感銘はなかつが、しかし、解釋の奇を衒ふのでなく、音樂の一つ一つの細胞に生氣を與へる事で、自づから獨創に達してしまふこの人の行き方が頼もしく、以後、その動向に注意してきた。1昨年のロンドン響との來日、新日フィルとの《第9》、そして今日の演奏會と、私のハーディング體驗は續いてゐるが、殘念ながら、最初のブラームス程の感銘は、今のところ、再び經驗してゐない。

 今日はまづ、《牧神》の出だしで、オーケストラの非力と、指揮者がそれをカヴァーしきれない弱さを感じた。管樂器が呼應しながら氣だるい神話的幻想―近代ロマン主義から訣別した象徴詩の世界の、本當に鮮やかな音樂での現成―が沸上がる。これは、樂譜の解析力といふよりも、音のイメージに遊ぶ力が求められ、しかも、フランス象徴詩といふ文學の純粹化運動に高度に呼應した作曲家の教養體系を、演奏家も又、何らかの意味で呼吸してゐる―我々異文化の人間ならば、それがたとひ誤讀であつても―氣配が求められる。最近では、ケント・ナガノのモントリオール響が、出だしのフルートのやはらかい黄金色で、いきなりこの幻想世界に私を溺れさせてくれた。樂譜を演奏してゐるのではなく、音畫を描く高度な美の職人達の仕事ぶりが、その後も續いた。あれは、何と鮮やかな世界定立力であつたか! 或いは昨年ロス・フィルを指揮したサロネンのドビュッシーでは、音が宙を漂つてゐるやうだつた。あれも忘れられない。
今日の新日フィルは、確かに、この數年、他の何人かの指揮で聽いた時よりいゝ響きで鳴つてはゐる。《牧神》で、弦が歌ひ始めた途端、ほの暗い響きが輝かしく束ねられ、獨特の粘着的な、しかし後味を引かない歌を歌ふ。これは全くハーディングのトーンであり歌である。瞬時にそれをオーケストラに感染させた力量は明らかだ。だが、少くとも今日の處は、それが音樂の全體を作れてはゐない。感銘が斷片で終はつてしまふ。要するに《牧神》では、響きの統合性が持續しない。どことなく貧弱である。が、それは、管樂器の奏者らの技倆に過半が委ねられるこの曲では、仕方がないかとも思つて聽いてゐた。オーケストラに課題が多い事も、しかし又、奏者らが誠實に努力してゐる事も明らかだつた。響きやイメージの貧弱は差引いても、音樂的な緊張は失つてゐなかつたとは言へるのである。

 オーケストラよりも、指揮の方への疑問が生じたのは《ラ・ヴァルス》からだ。沈默の中から沸上がり、低弦が不氣味に主題を歌ひ出した時には、面白くなりさうだと豫感された。粘り強く微妙な、息の長いフレージングは、妖怪じみて生き物のやうである。ところが、この曲で、間歇泉のやうに強烈に吹上げる、例の音響の狂宴―さうしたトゥッティに、音のパンチや色彩感、重量感がまるで感じられないのである。日頃右2階席を偏愛する私には珍しく、今日は、2階中央、批評家の諸石氏の恰度後ろ邊で聽いてゐたのだが、こゝで、こんなに不確かで腹應へのない音では、どうしようもないだらう。響きが、薄い。低音の音量が不足してゐるといふより、低音の上に安定した響きを構築出來てゐない。管と弦とが、融け合ひながら、全體としてのマスを聽き手にぶつけるだけの、音の核がない。音が激しくぶつかり合つて、その殘缺が異樣な輝きで崩落する、といふこの曲の快樂の基本的な部分で、これほど腰碎けでは、解釋も何もあつたものではない。繰返すが、最近聽いた新日フィルの中では、今日のハーディングは、いつになくいゝ音で鳴つてゐる。だが、響きを聽く喜びは、そんな比較とは關係なく、もつと生理的なものだらう。さうした素朴な喜びがない處から、どのやうな音樂的感銘も、育ちやうはないだらう。

 從つて、殘念ながら《幻想》の時には、最早期待感を持つ理由がなくなつてしまつてゐたが、普通の意味では、秀演といふ事になるのだらうか。ハーディングは、潔癖で鮮やかなフレージングをしなやかにコントロールし、音色に關しても、纖細なパレットを持つてゐる。リズムの推進力は如何にも鮮やかで、しかも地に足が付いてゐる。この指揮者のさうした美質は、健在だつたからである。

 一樂章冒頭の靜謐な氣配をごく自然に引出し、緊張を湛へてゐるのは素晴しい。主部では鮮やかな推進力で、音樂を急き立てる。響きは痩せてゐるが、フレージングには強いこだわりがあり、對位法的な處理を含め、奏者らにも、音樂への知的な思考過程に參加させようと努めてゐる。2樂章は優美であり、3樂章は内省的で丁寧だが、いづれも、傑出したイメージ喚起力がなく、優秀な音樂を聽いてゐるといふ印象を大きく出ない。たゞ、2樂章結尾でデュミヌエンドを掛けて、ハープを殘すのは始めて聽いた。ハープが濁音を生じてしまつてゐて、奇麗に決まらなかつたが、これは奇麗に決めないといふ意圖だつたのか。處で、この末尾デュミヌエンドはシュトゥットガルト時代のチェリビダッケさながらである。ハーディングのフレージングやデュナーミクには、しばしばチェリビダッケの影を聽く。最初のブラームスで、ただちに感じた事だが、今日も隨所にそれを感じた。

 4樂章、5樂章は、例によつて響きが薄い。響きの凝縮より擴散を狙つてゐるやうだが、體力がない音が擴散すれば、貧弱になるのは當然である。腰のふらついた音で、聽いてゐて、頗る不安定だ。最近の《幻想》では、音樂を讀むといふ意味で大植のものが壓卷だつたが、純音樂的には、ナガノ=モントリーオールが完璧を極めてゐた。さうした意味で、ハーディングは《幻想》を熟讀してゐるやうでもなし、オーケストラワークとして、徹底的なフォームに持込んでゐるでもない。

 ハーディングが、33歳で、世界中のメジャーオーケストラの客演をこなし續けてゐるといふのは、好ましい事なのだらうか。どのやうな經路を通らうとも、つまり、己を實現してしまふ程、強い大器なのだといふ事ならば、勿論、それはそれでいゝ。人生と才能の關係は、棺の蓋を閉めるまで、誰にも分らない。たゞ、數年の間聽いてきた實感を言へば、ハーディングは、おそらく、まだ、自分に確かな手應へを感じてゐない。更に若いドゥダメルが、既に、何か確かな自分の聲、自分の歌、自分の方法への手應へをつかんでゐたのとは異なり、ハーディングは、才能とキャリア雙方の可能性の、豐か過ぎる現在の前で、やゝ足踏みをしてゐる印象である。その事も含めて、ハーディングらしい、結局は、さういふ事であるのならば、焦らずに、彼が自分の本當の音樂に出會ふ迄、附合つてゆきたいと思つてゐる。(この項了)

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