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ハンス=マルティン・シュナイト指揮神奈川フィルハーモニー管弦樂團 (2009年03月11日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年03月11日より)

 ブラームス作曲 二重協奏曲(ヴァイオリン:石田泰尚/チェロ:山本裕康)/交響曲第1番(3月7日於ミューザ川崎)

 指揮者も樂團も始めて聽く。大變、眞面目で丁寧な演奏であるが、オーケストラが、音響的な集合體にまで練れてゐないといふ印象がまづ先に立つ。これは、佐渡裕氏の率ゐる兵庫藝術文化センター管弦樂團の數年前の公演でも感じた事だ。指揮者も樂員も、大變意欲的で丁寧に音樂を作つてゐる姿勢に好感が持てた點も共通してゐる。にもかかはらず、オーケストラとして統一ある音像を結ぶに至つてゐない。音色がホールトーンとして纏まらない。パートとパートの間に隙間風が吹く。個々の奏者が下手な譯では全くないのに、半分アマチュア風に聽こえてしまふ。

 さうは言ふものゝ、今日の演奏そのものは、實は、好感は持つて聽いた。

 二重協奏曲の最初のトゥッティで、シュナイトがいゝ音を出せる指揮者だといふ事は、瞬時に分つた。身の詰つた、しかし品格のある、純正な音。正に、ブラームスの音だ。かうした音をまづ提出出來るといふ事は、シュナイトが、樂團員にブラームスの「音」を想像させる力量は確かに持つてゐる事を示してゐるだらう。そして、二人のソリスト―神奈川フィルのトップ奏者達―は、極めて緻密で嫋々たる耽溺振り。この曲が、雄渾に歌の情念を竸ふ音樂と言ふより、それぞれが口ごもりながら獨白を交はし合ふやうな、不器用な友情の音樂に聽こえてくる。如何にも口下手さうな二人の舞臺姿からの勝手な聯想もあるかもしれない。だが、私は、低い聲で内に内に下降してゆくやうな今日の演奏に、熱い誠實と共感を聽く。好感は間違ひなく大きかつた。

 たゞし、聽き續けてゆくと弛緩の印象は禁じ得ない。何しろ、シュナイトのテンポが遲く、最初の音で期待した程、後のトゥッティでの鳴りがよくないからだ。最初、氣持よく聽いた音が、後に退屈の原因になつたのはどうしてか。シュナイトの音作りが、オーケストラのバランスを大切にしながら、色彩の亂れを、抑へてゆく、いはば減點法的なやり方だからであらうか。音のバランスを抑制の側から作り出し續ければ、しまひにそれは、灰色がかつてくすみ、音色一面に、晴れ間がなくなつてしまふ。太鼓がどんよりと鳴り、木管の色彩は埋沒しがちで、かと言つて金管が開放的に鳴り響くことさへ殆どない。先頃聽いたベルリン放送交響樂團や、かつて聽いたバンベルク放送交響樂團などもさうだつた。ならば、これはドイツ的な音と言ふ事になるのだらうか? だが、それを言ふのなら、ミュンヘンフィル、ベルリンフィル、ドレスデンやベルリンのシュターツカペレも、ドイツのオーケストラである。冱えない事がドイツ的といふ譯ではないだらう。

 しかし、この點に就ては、どこかで宇野功芳氏が書いてをられ、印象に殘つてゐる話がある。それは、氏によれば、朝比奈隆が練習で一度もバランスの矯正をしなかつたといふ話で、この着眼は、卓拔であるといふ他はない。宇野氏は、ドイツの指揮者はバランスや構造から音樂を作るのだから、さうした物から出發しない朝比奈をドイツ的と形容するのは間違ひだとされてゐた。こゝまで踏込むと議論は複雜になるから、今は置くが、そのやゝ弱い反證として、カラヤンが、N響を振つた時、まづ、全力のトゥッティを鳴らしてみせてくれと言つて、何度も棒を振り下ろしてゐる内に、N響から、かつてない程冴えたつややかなフォルティッシモを引出したといふ逸話を記しておく。これは、ドイツ=オーストリアの指揮者、カラヤンも、バランス以前に、オーケストラといふものは、まづ堂々と、恰幅よく鳴らなければ話にならないと考へてゐた證據になる。しかも、カラヤンは、バランスを抑制するのではなく、解き放ちながら、言葉を用ゐずに、N響から素晴しいフォルティッシモを引出した譯である。つひ忘れられがちな事だが、立派なフォルテが出せるといふ事は、實は、オーケストラ藝術の、最も重要な存在根據の一つに違ひない。音が空間を滿たすその力が、美的にも倫理的にもオーケストラ藝術の骨格となる。立派な指揮者は、大抵、立派な、そして極めて性格的なフォルテを持つてゐるものだ。
その意味で、昨日今日に限らず、概して日本のオーケストラが、トゥッティで、おどおどと細い音を出すといふ印象は、私には氣に喰はない。團員が、ホール全體を響かせるといふ感覺的喜び及び自信を持つ事は、あらゆるバランスや解釋に優先するのではあるまいか。

 さて、メインの第1交響曲は、編成も大きくなり、その意味で、音樂の柄が大きくなるかといふ期待はあつたが、基本的には二重協奏曲の印象に付け加へるものはなかつた。

 何しろ遲い。遲い分だけ、音樂的な密度が濃ければいゝ譯であるが、音樂的密度とは、では何であらうか。シュナイトは主題の提示や和聲進行、又、隨所に張り巡らされてゐる對位法的な扱ひに、周到を極めてゐたし、オーケストラも懸命に應へてゐた。その點で、不注意に彈き流される演奏より、今日の演奏は、幾ら立派かしれない。だが、本當の音樂的な密度は、もう一つ、その先に來る。音樂的な注意力が、その先で音樂家らを解き放ち、自在に生きられた音響のるつぼになつて始めて、それは、密度として聽き手の耳と心に屆く筈だらう。それには、やはり、フォルテを立派に響かせ切るといふ種類の、感覺的な喜びや自在をオケが所有するのが、前提なのではあるまいか。

 コーダに這入つてさへ全くテンポを上げないのには驚いたが、さすがに、こゝでのふんばりは聽き應へがあつた。そして、コーダに聽き應へがあつたとするのならば、音樂を聽いた時間の重みは確實に經驗出來てゐたといふ事になるだらう。あれこれ書いたが、白けた氣分でゐるのではない。音樂への全力投球の取り組みの氣持良さが確かに私の胸を温めてくれた事は、はつきり書いておきたい。なほ、ホールはほゞ滿席で、音樂監督退任となるシュナイトには、温い拍手が續いた。(この項了)

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