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クリスチャン・ツィメルマン ピアノリサイタル(5月18日於サントリーホール)(2009年05月24日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年05月24日より)

J・S・バッハ:パルティータ第2番ハ短調/ベートーヴェン:ピアノソナタ32番ハ短調/ブラームス」:4つの小品作品119/シマノフスキ:ポーランド民謠の主題による變奏曲作品10/

 如何にも好感の持てる風貌、しかし、音樂家としては果して「本物」なのだらうか?

 確かに、鈴のやうに玲瓏と響く高音のピアニッシモは卓絶して素晴しい。今日の演目では、ベートーヴェンの32番ソナタのアリエッタの後半が、その最大の聽かせ所であつたらう。よく歌ふ素晴しいレガーティッシモと、えんえんと續くあのトリル―とトレモロ―、あそこを、あんな風に、春の雨がアーチ上に振り注ぐやうな優しい温さで、そして、後半になれば、その優しい雨もあがり、音が空に虹を架けるやうに演奏したピアニストを、私は他に知らない。トリルまでもが、纖細に光輝きながら、絶えず伸縮する抑揚を歌ふ。一つのトリルから、次のトリルへの受け渡しが、歌を歌ひ繼ぐやうに息づく。あそこは、晩年のベートーヴェンが、ピアノといふ樂器の特性から離れて、美の觀念の世界に飛躍し過ぎた惡癖に聽こえる事が多い。確か、ルービンシュタインは、あの部分に就て、辛辣な皮肉を云つてゐた筈だが、それは多くのピアニストの本音だらう。この曲の終幕に、今日のやうに、こゝまで自足して豐かな美が眠つてゐたとは、私は、迂闊にもツィメルマンによつて初めて氣付かされた。

 同じやうな事は、ブラームスの4つの小品の第1曲にも云へる。こちらは、枯葉舞ふ晩秋の……などと書出せば、詩才の乏しさを曝け出すばかりだから止しておくが、高音から零れるやうに、音の滴が舞ひ降りる侘しい微光には息を呑んだ。なるほど、こんな音樂であつたのか。晩年のブラームスが棲んでゐたのは、これ程にも崩れた世界であつたのか。ショパンが後期ロマン派の時代まで生き殘つてゐたら、こんな淋しさまでさ迷ひ出てしまつたかといふやうな、これは餘りにも殘酷な孤獨ではあるまいか。こんな風に、この音樂が鳴るとは、思はなかつた。ブラームスを、どこまでも線の太い和聲の柱からとらへてきたピアニストたちが見落してきた何かを、こゝでのツィメルマンが拾ひ上げてゐるのは間違ひないやうだ。………

 ベートーヴェンの32番とブラームスの4つの小品といふ二人の巨匠の最後のピアノ曲を竝べて、ピアニッシモに終り、ピアニッシモに受け繼がれる世界を、こんな風に描き分ける。晩年に至つていよいよ、音樂に於ける崇高さといふ夢を完成させたベートーヴェンの世界から、現實のみならず夢さへ破れ去つた、老廢の孤獨、絶對0度の孤獨へと、聽き手を瞬時に誘ふ。

 ピアニッシモ一つでこんな藝當が出來るピアニストがさうゐようとは思はれない、だつたら、この人、文句なしに「本物」のピアニストとしていゝぢやないか?

 さう云へたら樂なのです。だが、今擧げたやうな箇所が、どんなに魅力的であつたにせよ、それは、弱音での歌が齎す、耽美的な世界に過ぎない。要するに、部分の魅力を、擴大して聽かせてくれた、といふ以上のものではない。それを支へる作品の全體といふものを、この人がどう提出してゐたかになると、實は、にわかに、クエスチョンがついてしまふのである。

 例へば、アリエッタの有終の美をあれ程崇高に歌ひ上げた同じピアニストが、同じベートーヴェンの32番の1樂章で、どうして、私に、何とも云へぬ貧弱な印象を與へてしまふのか?

 いや、それを言ふのならば、實は、最初のプログラム、バッハのパルティータの出だしから、印象は、よくなかつたのである。フォルテでの高音がやゝ耳障りで、メタリックに聽こえてしまふ。響きの腰が輕く、落著かない。樂器や調律にこだはるピアニストとされてゐるだけに、これは意外だつた。同じやうに樂器のコンディションに異常にこだはるピアニストには、ホロヴィッツやミケランジェリがゐるが、彼らは最初の一音で聽き手を、本當にノックアウトしたものだ。ツィメルマンの最初の一音は、私に平凡な印象と共に、技術上の疑問をさへ抱かせた。この差は餘りにも大きいと言はねばならない。

 その後、フーガに至つて、疑惑は一層強まつた。フーガの構造的な部分で、音樂が無用に流麗過ぎて、明晰さに缺けるからだ。これは、グールドやチェンバロの演奏と比較してさうであるばかりではない。ドイツ系ピアニスト達の傳統的でロマンティックなバッハでも、フーガの處理は、寧ろ、克明を極めるのが通例である。そこへゆくと、ツィメルマンのフーガは、多聲性が充分に表現されきつてゐない上、流れに尻が持つてゆかれさうで、居心地がひどく惡かつたのである。

 ベートーヴェンの1樂章でも、この落著きの惡さは變らない。あの力強い序奏部で、この人は、音樂を妙に急く。フォルテの音が荒れる。主部へ向かつてテンポアップしてゆく時に、テンポを擧げながら音壓を増すのではなく、逆に、流れが上ずつて、彫りの淺い表層雪崩の樣相を呈する。これは、その後も、テンポが競り上がる時に、決まつて繰り返されるのだが、どういふ譯なのだらう? 打鍵が、と云ふより、音樂そのものの、底まで鳴りきつてゐないまゝ、腰から流れてしまふ感じなのだ。2樂章だと、例のブギウギのリズムも、ぞろりとした和服の着流しのやうに、何ともだらしなく、いたゞけない。ケンプの武骨だが切ないまでの昂揚、ミケランジェリの油を流したやうな黒光りする滑らかさ、バレンボイムの鋼のやうにしなやかな快活、さうした表現性がまるで感じらず、たゞ音樂が鳴つてゐるだけである。

 總じて、ベートーヴェンのアレグロ部分に關しては、この人は、既に、彈けなくなつてゐるのかと思はせる程、ピアニズムの上で光るものが感じられない。しかも、それに代る表現への固執が、感じられない。ケンプやフィッシャーが巧くないと言つても、彼らには、やりたい音樂がはつきりしてゐ、しかも、どんな瞬間にも音やリズムの全てに音樂が充滿してゐた。それが彼らの音樂の豐かさをなしてゐる。ツィメルマンのベートーヴェンは、耽美的な瞬間を除くと、何がやりたいのかが私には聽こえてこない。あたかも、表現と音樂の間に音が挾まつて邪魔をしてゐるやう。

 後半に置かれたブラームス冒頭の驚きは既に書いた。第1曲のみならず、全體に、この作品の面目を一新する程、大きな表現主義的野心に溢れた作品に生れ變つてゐたと言つていゝ。この作曲家が生涯最後の時期に抱へてゐた深い孤獨が、深刻な振り幅で表現されてゐる。これは傳統的な演奏から見れば、誇張かもしれないが、私には完全に説得的に聽こえた。技術的にも納得がゆくものだつた。前半のプログラムでの煮えきらなさが嘘のやうである。〈4つの小品〉とシマノフスキで後半が持つのかといふ疑問は、この曲の深讀みの充實を聽いてゐる内に、すつかり解消してしまつてゐた。

 最後に持つてきたシマノフスキは、始めて聽く。同郷者として、ツィメルマンが情熱を以て世に紹介してゐる作曲家だけあり、ピアニストは、こゝに至つて最も生彩に富んでゐたと言つてよいだらう。心に染みる民謠が、20世紀前半の樣々な音樂思潮と技巧とに染められて、多彩に變貌してゆく有樣が、ヴィルトージックな祕術を盡くして探究されてゆく。たつた一度聽いて何が分るものでない事を承知の上で書くなら、佳曲と思つたが、作曲家として、強い個性を持つ人とは感じられなかつた。作曲家自身のトーンが、一聽しただけでは見えてこない。例へば、ストラヴィンスキー、バルトーク、ウェーベルンに、それが確實にあるやうな意味で。

 たゞ、一つ、胸を衝かれたのは、時にひどく兇暴になるこの人の音調である。それは、〈春の祭典〉や〈結婚〉に代表される純粹に音樂的な試みとしてのバーバリズムでなく、後にショスタコーヴィチが痛々しい形で實現したやうに、政治的な彈壓への強烈な反抗としての兇暴性と同質だと感じたからだ。作曲家の履歴は研究してゐないまゝ書いてゐるので、それが史實の上で正しいかは別に、印象として書き記しておきたい。

 それにしても、こゝでのツィメルマンの技巧は見事なもので、底の淺い腰碎けは聽かれない。では、あのベートーヴェンはどういふ事だつたのだらう? (この項了)

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