マウリツィオ・ポリーニ ピアノリサイタル1(5月19日於サントリーホール)(2009年06月03日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年06月03日より)

 シューマン:ピアノソナタ第3番へ短調/シューマン:幻想曲ハ長調/シェーンベルク:6つのピアノ小品作品19/ウェーベルン:ピアノのための變奏曲作品27/ドビュッシー:練習曲集第2集

 2005年秋の來日公演でのポリーニが、餘りに覇氣に乏しかつたので、前囘は敬遠したが、今囘は、1プログラムだけでも聽いておかうと思ひ立つて、出掛けた。キーシン、ツィメルマン、ポリーニと、短時日での來日が續いたからだ。世評では、當代最高のピアニストといふ事になつてゐる3人である。彼らの背比べをしようなどとは、甚だ趣味のよくないコンサート通ひではあるが、現代、ピアノに世評が要求してゐるものが何かは、聽こえてくるだらうし、3人の中で、今のポリーニが、改めて、どう聽えるかといふ興味もあつた。結果から言へば、聽きに行つてよかつたと思つてゐる。

 感銘があつたと言ふ譯ではない。ファンには申し譯ないが、率直に云つて、ポリーニを聽くと、いつも、日本の批評家達の手放しの讚辭と、感銘の極端な薄さとの大きな落差に、決まつて困惑する。さういふ演奏家は、今日ざらだと言はれれば、確かにその通りだ。ならば、ポリーニこそが、感銘とつながらない平板な精密さの、最初にして最高の「巨匠」なのだといふ事になるのであらうか。

 今日の演奏會が、さうした平板な秀才の印象を超えるものでなかつたのは、致し方がない。だが、忍び寄る老いに對して、ふつ切れたポリーニを聽く事が出來た。それを、感銘と呼ぶ事は出來ないが、安堵が小さくはなかつたのも事實である。

 前囘は、ベートーヴェン、ショパン、現代音樂の3つのプログラム全てを聽いたが、同伴した家内や友人の反應も含め、これが世界第一のピアニストかといふ驚きだけが殘つた。衰へをカヴァーする爲であらう、全體に小さく纏まつてゐるだけで、音樂的な價値を云々する以前に、まるでホールが鳴らない。レコードでの近年のポリーニは、若い時のメカニック一方の演奏よりは、音樂にも音色にも厚みが出てゐる上、打鍵の強烈さは、寧ろ増してゐるやうに聽こえてゐたのだから、公演での、この低調さは、豫想してゐなかつた。これは、私の周圍だけの感想ではなかつたやうだ。「音樂の友」のその年のベストコンサート選びで、批評家達は、ポリーニのリサイタルには、確か一人も投票してゐなかつたのではなかつたらうか。ちなみにこの年の批評家投票では、2月に來日したバレンボイムによる平均律全曲演奏會が、3位に選ばれてゐた。公演が2月の上、バレンボイム嫌ひで、オーセンティックなバッハが大好きな日本の批評家連が、これを3位に選び、音樂ジャーナリズムが口を開けば世界最高のピアニストと叫び續けてきたポリーニの、選りに選つて11月の公演を、一人も推してゐない。それ程、期待外れな出來だつたのである。

 今囘のポリーニを聽く限り、公開演奏での技術的完璧といふ強迫觀念に對して、どうやら、かなり大膽に老大家の道へと舵を切つたやうである。公演プログラムでは、濱田滋郎氏が、例によつて大絶讚の大安賣りをされてゐる。それは氏の物書きとしての生き方の問題だからいゝとして、最近のポリーニの變化に對して、氏が、「甚しくは、そこにポリーニの“初老化”を見る人すらあるかもしれない。」と、まるで、「ポリーニの“初老化”」を云ふ者は、人間にあらずと云はんばかりの書き方をされてゐるのは、幾らなんでもないだらう。濱田さん、如何に現代人の壽命が伸びても、67歳は初老どころか、立派な老人ですよ。そして、年齡の問題と云ふ以上に、ポリーニの演奏技術は、實際に老化が認められる。

 尤も、さうは云つても、ホロヴィッツの來日公演やケンプ、ミケランジェリの最晩年のやうに、本當に腕が利かなくなつてゐるといふのではない。コントロール能力の微妙な低下に過ぎない。だが、レコードでの強烈な打鍵を聞き慣れてゐる耳には、舞臺でのポリーニが彈けなくなりつゝあるのは、餘りにも明白である。今日は、ミスタッチや音飛びの散見だけでなく、早いパッセージが充分に音壓を掛けられず、音樂が流れてしまふ場合も、かなり聽かれた。冷徹なまでに安定した音の粒立ちは、微妙に姿を代へ、不安定に搖れる。ポリーニが、他の誰よりも「完璧」と絶讚されてきたのは、正に、コントロール能力の微妙さに於てなのだから、それが微妙に狂ひ始めたら、ポリーニ特有の「完璧」さは、終はつたことになる。それを指摘するのが、批評と言ふものだらう。

 ちなみに、私は、コルトー、フィッシャー、ケンプのやうにメカニカルに「完璧」でないピアニストが、本來好きだし、ホロヴィッツやミケランジェリの腕の利かなくなつた後の演奏を、全盛期の演奏よりも、時に愛する。だから、「完璧」に固執しなくなつたポリーニが、もし、その指の不自由を梃子に、音樂家としては、一層自由になる事があるのならば、寧ろ、喜ぶべき事であるだらうと信じる。完璧な指のまゝ、成熟してゆくのが理想なのではあるまい。それならば、古代支那の皇帝よろしく不老長壽の藥でも探せばいゝだらう。人は、老い、死ぬ。毎日が、不自由さへの轉落の可能性と背中合せである。だから、どう達觀するか、どう處するかに眞劍たらざるを得ない。さうした格鬪のない處で、音樂家としての、自由も成熟もある筈がない。その意味では、いゝ加減、ポリーニを「完璧」から自由にしてやる事は、寧ろ、批評の親切と言ふものではないのか。

 勿論、實際のポリーニが、老いを積極的な表現力に轉化させられる人なのかどうかは、誰にも分らない事だ。だが、少くとも、今囘の演奏會でのポリーニは、前囘の彼のやうに、老化を隱さうとはしてゐない。それでもいゝから、自分の音樂はやり拔かうといふ決意が、演奏全體の強い生彩と自信となつて表れてゐる。ポリーニのピアノをさほど評價しない私が、安堵したといふのも、この人の、この生き生きとした自信に對してである。どのやうな道であつても、卓越した能力がある人が、その限界に向かつて、精一杯力を出しきつてゐる姿に接するのが喜びでない筈はない。前囘のやうに萎縮したポリーニを聽くのは、やはり偲びないのである。(この項續く)

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秘書室
文芸評論家・小川榮太郎秘書室です。