マウリツィオ・ポリーニ ピアノリサイタル2(5月19日於サントリーホール)(2009年06月05日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年06月05日より)

 ところで、チケット購入時に、プログラムが未定で、明けてびつくり玉手箱といふ趣向は、餘り趣味のいゝものではない。ポリーニで聽きたいプログラムもあれば、さうでないものもある筈だ。我々は自由な聽衆であつて、ポリーニ教の信者ではない。今囘は、Aプロがオールショパンプログラム、私の聽いたBプロは、かなりマニアックなプログラムになつた。私は、ポリーニのショパンには全く感心しないから、これで良かつたが、Bプロの日を購入した聽衆の多くが、「外れ」と感じたとしても、それは同情に値すると思ふ。私が今、この人で最も聽きたいのはバッハの平均律だから、それを外した場合を想像すると、相當悔しい思ひがしただらうからである。先だつてのツィメルマンもさうだし、若手のピアニストにもプログラム未定のまゝ發賣する人が出て來たやうだ。

 ピアニストが、神經質になつてゐるのは、例の「完璧」の要求とも重なるのだらうか。それならば、尚更、私たちが彼らに求めるべきは音樂であつて、僞りの「完璧」ではないと云ふ原點に、戻るべきではなからうか。コルトーやケンプは下手だけれども、音樂性が豐かだつたのではなくて、彼らが必要とする音樂の意味が、今日の「完璧」なそれとは異なる技術を要求してゐた。今日ポリーニがやつた、シューマンの《幻想曲》にしても、ケンプの演奏は、何と濃密な和聲の搖れで、始めから琴線に觸れてくる事か。ポリーニどころか、ホロヴィッツと較べても、この「味」は、何とも「うまい」。だが、個々のタッチに分解して、點數を付ければ、これが「下手」だといふ事になつてしまふ。音樂に求める意味を、樂譜の物理的な指の運動への變換に限定し、その變換の精度だけで測られた「技術」など、音樂とは關係がない。どうして人々は容易にこの事を忘れてしまへるのだらう。これも、又、批評が、聲を大にして強調し續けるべき事だと、私は信じる。

 演奏の詳細には觸れない。率直に云つて、さうしたい程の感興はなかつたからだ。

 選りに選つて、シューマンからソナタの3番と幻想曲作品17を、ドビュッシーからは〈練習曲〉を採り、間をシェーンベルクとウェーベルンで繋ぐといふプログラムは、懲り過ぎてゐて、私のやうな單純な音樂好きには、さう樂しめるものではない。勿論、ホロヴィッツ、ギレリス、ミケランジェリ、バレンボイム級の表現者が、このプログラムをやるといふのなら、話は別だが、ポリーニの演奏からは、かうした「凝つた」プログラムでなければならなかつた理由は、最後まで聞えてこない。

 前半のシューマンでは、グランドソナタで、音型の變化自在で執拗な反覆が、明晰に表出出來てゐない。どことなく崩れてゐて、フォームが融け出してゐる。2樂章への強烈な感情移入の意欲は分るが、ポリーニの不幸は、どうしても、音そのものから感情が溢れない事だ。この人のピアノには、いはゆるF分の1の搖らぎがまるでない。ミケランジェリやチェリビダーケも搖らぎがなかつたが、その分を別の強烈な表現で滿たしてゐた。そのプラスアルファがないのが、一言で云へば、ポリーニの平凡さの印象だと思つてゐる。世評は彼を完璧と呼ぶが、その彼が最も尊敬する演奏家は、周知のやうにフルトヴェングラーで、彼の一番の愛聽盤は、フルトヴェングラーが指揮をし、エトヴィン・フィッシャーがピアノを彈いてゐるブラームスの第2協奏曲なのだ。誇張して云へば、これは殆ど滑稽な悲劇であらう。

 次の《幻想曲》は、立派な演奏だつた。これは今囘最も完璧に演じられた曲ではなかつたらうか。だが、やはり、幻想が飛翔しない。音がホールの空間を舞はない。キーシンよりもよく響き、ツィマーマンよりも安定したバランスで鳴るのだから、そのピアニズムの基礎となる耳は、やはり特段に優れてゐるのだとは思ふ。だが、シューマンを聽いて、あの、甘酸つぱい郷愁や、焦躁と音樂的な昂揚とのないまぜになつた獨特の酩酊感がなければ、それはシューマンではなく、シューマンの樂譜の、音への飜譯に過ぎまい。

 シェーンベルクとウェーベルンではつきり分つたのは、ポリーニは、單音を豐かな音樂で滿たせないといふ事だ。たつた一つの音に抒情があり歌があり得るといふのは、ピアノといふ樂器の性質上、誇張と云はれゝば認めるより仕方がない。それでも、たつた一音に、詩情が舞ひ降りるといふマジックからしか、本當の音樂は始まらないといふのも、私のコンサート通ひによつて學んだ眞實である。ミケランジェリのシューマンのピアノコンチェルトは、最初の下降音型で、その暗渠へ沈み込む、ピアノから出る音とも思へぬ暗い暗いをののきで始まつた。あれに觸れたが最後、聽き手は魔法に掛かつたやうに、それから後の音樂的な冒險に、息もまゝならぬ緊張の中で附合はされてしまふ。そして、バレンボイムの《平均律》!あのハ長調の最初のフレーズが、ピアノからではなく、ホールの外の天空から光の粒子となつて舞ひ降りた樣は、どうだつたであらう。

 シェーンベルクとウェーベルンでは抒情の性質がまるで違ふ、それが、この二人を竝べてのポリーニの演奏からはまるで分らないのが、私には本當に心外だつた。作曲家名を隱して演奏されたら、私のやうに新ウィーン樂派に通じてゐない者には、どちらがどつちか區別が付かない。幾ら私の耳が雜駁でも、そんな筈はないのである。ポリーニには、音を、イマジネーションを通じて表現する能力に、大きな缺落があるのではないか。その印象は續くドビュッシーの《練習曲》でも變はりない。

 アンコールは、打ち解けてゐて、素晴しかつた。《沈める寺》の打鍵は、マジカルだ。なるほど、往年の彼は、どんな速い、難しいパッセージでも、この打鍵を維持出來たのだらうか。それならば、ルービンシュタインが、ショパンコンクールで、「審査員の誰よりもうまい」と發言したのも頷ける。

 惡口を竝べたが、全盛期のポリーニを聽けなかつた事は殘念だつたと思ふ。老いの現實を受け容れた處から、音樂の賢者としてのポリーニが近い將來生れる事を、祈りたい。(この項了)

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秘書室
文芸評論家・小川榮太郎秘書室です。